半透明記録

もやもや日記

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「夢大盡」

2011年06月18日 | 読書日記ーフランス


『リイルアダン短篇集(上)』辰野隆選(岩波文庫)

伊吹武彦訳





《あらすじ》
青年詩人のアレクシーは21歳の誕生日の夜を、友人である画家と音楽家とともに過ごしていた。アレクシーの宿には小さな開かずの扉があり、ときおりその隙間から苦しげな老人の声が洩れ出るのを聞いた三人は、それに興味を示すのだが……


《この一文》
“「ああ、お若い方、あなたですか!」老人は息も絶えだえに言葉を途切らせながら、ごく低い一聲で一語一語いつた。――「私はお前さんのいつてることを聞きました。そら……その聲に……聞き覚えがある。お前さんは話してゐましたね……王様のことを、流された人のことを……。私も夢想家です……私は一生夢を見て過ごしました!……さつきはお蔭で楽しうござんしたよ……最後の夢を見させて下さつたんだ! 夢! ……美しいもんですよ……だが……毎晩都の大路小路をうろついてゐると……時には見つかりますよ……夢を先づ先づ正夢にするだけのものが!……みんなはただ長い間の癖で……そんなものは、相手にしないだけの話です。――ところが……地味にして、気をつけて、見つけたものを巧く廻せば……長の年月には……なれますよ――金持に! 見て下さい!」 ”






とにかく、夢を見ないことには始まらないのです。

私もさまざまな夢を見ます。起きていても寝ていても、たくさんの夢を見てきました。時には具体的な夢を、こういう人間になりたいとか、こういう職業に就きたいとか、多くの夢が通り過ぎて行って、私はそのうちのどれひとつとして現実にすることはありませんが、心は爽やかです。実現しなかったということで私の心が曇ることはもはやなさそうです。そこは、わりとどうでもいいようなのです。いつのころからかそうなった。かつては、もちろんいくらかは苦しみましたが。

さて、しかし、それはどうしてそうなったんだろうと考えていたのですが、それは私が夢想家だったからなんだなあ。私は夢想家だったんだ。だからもうほかのものになる必要なんてないんだ。それだけではだめかもしれないけれど、とりあえず夢想家であることには違いないし、夢想家でいることは、私にはなによりも心地いい。たとえば人生に期待するものが「幸福感」であるとするならば、私は幸福ですよ。夢を見ていられれば。それだけでも充分に。


夢と言うと、いつか、こういうことを思いついたことがあります。私が現実世界で美しいものを見たり聞いたりすると、私がそれを忘れてしまっても、夢はいつまでもそれらを保管してくれていて時々私に見せてくれるんだと。現実の美しいものを夢の中に持ち込めるのだと。夢と現実とは繋がっているのだと。どちらも同時に美しくあることは可能であるのだと。私は夢想家ですが、それは現実を愛さないということではないですね。ただ、どちらでも同じように生きたいと思っているのです。できれば美しく。





ともかく、夢を見なければ始まりません。
この物語に登場するご老人のように、一生を夢を見ることに費やせたらいいなあ。そしたらきっと幸せな生涯だ。



夢、美しいもんですよ…!

ええ、ほんとうに。