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森羅万象 ~ 歩く印象派

神戸の山中に光るキノコ ホタルと同じ物質持ち発光

2007年06月25日 12時00分08秒 | 歩く印象派
2007年06月24日16時58分朝日COM

 神戸市北区の山中で、発光性のキノコ「シイノトモシビタケ」が、幻想的な姿を見せ始めた。

写真シマサルスベリの木に生え始めたシイノトモシビタケ=神戸市北区で

写真シマサルスベリの木に生え始めたシイノトモシビタケ=神戸市北区で

 同キノコは、落葉高木であるシマサルスベリの老木に生えている。根元付近や枝の朽ちたくぼみには現在、高さ2センチ程度のものが50本ほど見られる。昼間は薄茶色だが、辺りが闇に包まれると淡い緑色の光を放つ。珍しさから持ち帰る人もいるらしく、有志による見回りも行われている。

 兵庫県立人と自然の博物館などによると、このキノコは、ホタルと同じ「ルシフェリン」という物質を持ち、酵素反応によって光る。50年代に八丈島で発見後、しばらく島の固有種と考えられてきたが、95年ごろに和歌山で2例目が見つかって以降、三重や大分などの県でも確認されている。

 いずれも湿度の高い梅雨時に現れ始め、数日間のサイクルで枯れては生える。秋雨前線の影響で9月ごろ再び見られる年もあるという。

本日開催!館林ロストシティランブラーズ結成25周年コンサート at ももの木保育園

2007年06月24日 07時42分26秒 | 館林ロストと愉快な仲間たち


25年という歳月は1世紀の四分の一なわけで、こんな長い期間一つのバンドが続くというのはすごいことである。その始まりから付き合ってる私としては外すわけにはいかない今日のイベントだ。
嬉しいことに友人のR氏、biro氏、マサルさん、さらに押上からsuzuさん、hirokiさんたちも駆けつけてくれるという。楽しい一日となりそうだ。

沖縄「死の真相は強制」 県資料館「自決」は使わず

2007年06月24日 07時23分28秒 | 沖縄の旅
写真:沖縄県平和祈念資料館(昨年11月訪問時撮影)
2007年06月24日06時56分朝日COM

 沖縄戦の際、日本軍が住民に「集団自決」を強制したという記述が教科書検定で削除された。一方、この戦争で最後の激戦地となった糸満市摩文仁(まぶに)にある県平和祈念資料館では「集団自決」ではなく、「強制による集団死」という言葉を使って展示をしている。住民の死の実相を伝えるには、その方がふさわしいとの考えからだ。なぜか。来館者らは何を思うのか。

 沖縄戦終結の日とされる「慰霊の日」の23日。沖縄全戦没者追悼式が開かれた平和祈念公園の一角にある資料館には、大勢の人が訪れた。00年4月に開館した、まだ新しい建物だ。

 「集団死」に関する常設展示は2階にある。「日本軍の強制による集団死」との説明があり、現場近くで見つかったという、さびた刃物やカミソリ、手投げ弾が並ぶ。首の後ろの傷跡を見せている人の写真には「集団死をはかった時の傷跡が残る」との説明が付けられ、「集団死の現場から米軍に保護された人々」という写真もある。

 75年に建てられた旧資料館は「集団自決」と説明していた。だが、新資料館建設の際、これが問題になった。

 展示内容に関する監修委員の一人だった石原昌家・沖縄国際大教授(社会学)は「『集団自決』とは軍人が責任を取って自殺すること。軍人ではない女性や子ども、お年寄りが責任を取ることはあり得ない。『強制による集団死』との表現がふさわしいと主張した」と振り返る。

 こうした議論を踏まえて、資料館の設立理念の文言も一部変更された。旧資料館では、「ある者は追いつめられて自ら命を断ち」と「自決」を意味する表現があった。その部分を「自ら命を断たされ」と受け身の形に改め、強いられた死であったことを明確にした。

 資料館は、「集団死」の経緯と背景について、こう説明している。

 日本軍は、住民と同居し、陣地づくりなどに動員した。住民の口から機密が漏れるのを防ぐため、米軍に投降することを許さなかった。迫りくる米軍を前に「軍民共生共死」の指導方針をとったため、戦場では命令や強制、誘導により親子、親類、知人同士が殺しあう集団死が各地で発生した。その背景には、「天皇のために死ぬ」という国を挙げての軍国主義教育があった。

 この日、沖縄キリスト教学院大の学生3人が資料館を訪れた。平和を願い、学生約20人で折った千羽鶴を届けるためだ。「集団自決」を巡る教科書検定について、「なぜ事実を載せないのか。許されない」と怒った。

 糸満市の福田純安さん(70)は「(集団自決の際に)軍が組織として命令を下したのか、一人の軍人が手投げ弾を渡したのかにこだわっても仕方がない。住民は従うしかなかったのだから。教科書の記述は元に戻した方がいい」と話す。

 「検定意見は事実を隠そうとしている。起きたことを認めて事実を教えるのが大切だ」と話したのは中城村の大学生、座間味江梨さん(20)。大学に出すリポート作成のため、沖縄戦体験者の証言を聴こうと資料館を訪れた。「当時の教育の力が集団死に追い込んだ。自殺に追い込まれた住民にとっては『集団自決』よりも『強制集団死』という言葉が適切だ」

 資料館には「住民から見た沖縄戦」というコンセプトがある。宮城智子館長は話す。「住民の証言は重みがある。日本軍の強制による集団死の事実は否定できない」

慶良間諸島の集団自決は日本軍の命令~米軍公文書発見 2006/10/07

2007年06月23日 22時20分27秒 | 沖縄の旅
右傾化が進む日本社会で、歴史的な事実までも捏造されていることが分かった。3日付け『沖縄タイムス』朝刊一面トップ記事は、関東学院大学の林博史教授がアメリカ公文書館で発見した『慶良間列島作戦報告書』で、日本軍が住民に対して「集団自決」を命令していた、と報道している。

 沖縄戦では慶良間諸島や伊江島などで集団自決は確かにあり、その事実は否定できない。住民を自決に追い込んだことが問題なのに、最近は「軍命があったかどうか」だけを議論し、その結果「軍命否定」の動きだけが活発化していた。

 慶良間諸島は渡嘉敷村と座間味村を構成する大小20の島々からなる。沖縄戦では米軍が最初に上陸(1945年3月26日)したのが慶良間諸島である。集団自決は座間味村で358人、渡嘉敷村で329人と記録されている(『沖縄大百科事典』)。

 林教授が発見した資料(報道)によると、慶良間の住民を男女別に収容し尋問した結果として「3月21日に、日本兵が慶留間(けるま)の島民に対して山中に隠れ、米軍が上陸してきた時には自決せよと命じたと繰り返し語っている」と記述されている。

 米軍は慶良間諸島を占領したあと、「米国海軍軍政府布告第1号」(ニミッツ布告)を公布し、”南西諸島における最高行政の責任は占領軍司令長官にある” として、日本のすべての権限の停止を宣言している。占領政策のスタートだ。その米軍が行った調査だけに貴重な記録である。

 日本軍の命令を否定する作家らは「軍命の証拠がない」ことを根拠にし、沖縄タイムス社発行の『鉄の暴風』は単なる伝聞に過ぎないと断定。その記述を引用した沖縄戦関係の書籍を間違いと糾弾していた。

 作家の曽野綾子は『日本軍の住民自決命令はなかった 集団自決の真実』を著し、その帯には「大江健三郎氏の『沖縄ノート』のウソ」と批判している。『沖縄ノート』は『鉄の暴風』からの引用で確実な証拠はない、としている。

 小さな島でお互いに肩を寄せ合って生活しいる住民は戦後、多くを語らなかった。それだけに「軍の命令はなかった」という言葉だけが勢いよく語られることになった。今回の資料発見は右傾化していく日本社会にも一石を投じる、貴重なものである。

(比嘉康文)

<参院選>大仁田氏“失望引退” 政党の集票手法に一石

2007年06月23日 20時51分18秒 | 時事スクラップブック(論評は短め)
6月23日21時9分配信 毎日新聞

 参院選に比例代表で出馬予定だったプロレスラー出身の大仁田厚参院議員(自民)が23日、1期限りでの引退を表明した。個人名でも投票できる「非拘束名簿」方式が初めて導入された01年の参院選では各党が著名人擁立に躍起となり、大仁田氏のほかタレントの大橋巨泉氏(民主)、大学教授だった田嶋陽子氏(社民)も当選したが、いずれも政党への失望を口にして既に国会を去っている。自民党は大仁田氏に代わり「ヤンキー先生」で知られる義家弘介氏(36)を擁立する方針だが、著名人で集票を図る手法が改めて問われそうだ。
 同日記者会見した大仁田氏は「参議院は首相官邸の人気取りの道具ではない」と切り出した。
 引退の直接の理由は、安倍政権が主導した今国会の会期延長と、参院選の日程先送りに対する抗議だと説明。「国民が求めているのは付け焼刃で法案を通すことでなく、慎重審議だと思う。選挙目当てにウソをついてまで当選したくない」と強調した。
 また、参院の存在意義について「3年くらい前から悩んでいた」といい、「衆院から降りてきたことをそのままやっていく。今回もそうだが『ハイ、そうですか』で通してしまっていいのか」と疑問を投げかけた。
 01年選挙では個人名で46万票を獲得したが、「タレント議員」としての迷いもあったようだ。
 「何百という選挙区に応援に行った。それがタレント議員の仕事みたいなもの。(テレビに映る)僕の映像は(審議が荒れた時)いつも委員長を守る場面ばかり。レスラーという偏見を打ち破ろうとしたが、自分の勉強不足を痛感することもあった」と語った。
 一方、41万票を獲得した大橋氏は、民主党への不満が膨らみ、02年1月に議員辞職した。会見で「党が自民党と同じ体質と知り、力が抜けた。6カ月で辞め、無責任なタレント議員というバッシングも覚悟している。出馬は後悔していないが、民主党から出たことは後悔している」と党批判を展開した。
 田嶋氏は51万票を集めたが、北朝鮮問題での党の対応などに不満を募らせ、02年10月に社民党を離党。会見では党について、「外で抱いていたイメージと違う。透明性もなく、説明責任も果たしていない」と批判した。03年4月の神奈川県知事選に出馬(落選)。「知事は小さな大統領。党を離れた時からずっと首長になりたかった。国会はリズムが

62年前に見た集団自決の現場 「軍曹が命じた」

2007年06月23日 17時30分54秒 | 沖縄の旅
写真「平和の礎(いしじ)」に向かって、妻の英子さんと手を合わせる吉川嘉勝さん=23日午前、沖縄県糸満市の平和祈念公園で

2007年06月23日15時30分 朝日COMより

 沖縄戦の戦没者ら約24万人の名を刻んだ「平和の礎(いしじ)」。糸満市摩文仁(まぶに)に立ち並ぶ碑の前で23日朝、元中学校教諭の吉川嘉勝さん(68)は妻の英子さん(68)と一緒に静かに手を合わせた。礎には米軍の艦砲射撃で亡くなった父の名がある。

 62年前、吉川さんは「集団自決」の現場にいた。

 那覇市の西約30キロにある渡嘉敷島。周囲25キロの島に米軍が上陸したのは45年3月27日のことだ。住民らは土砂降りの雨の中、島北部の通称「北山」を目指した。吉川さんと家族もその中にいた。当時6歳だった。

 「集団自決」が起きたのは翌28日。たどり着いた山中で家族や親類ごとに円陣を組んで座った。村長の短い訓示の後、「天皇陛下万歳」の叫びとともに、あちこちで手投げ弾が爆発した。

 吉川さんの家族ら約10人が輪になった中でも、義兄らが手投げ弾を石に打ち付けた。だが、爆発しない。父は「火を燃やして、投げ入れろ」と指示した。

 母が叫んだ。「手投げ弾を捨てろ」。生きられるだけ生きるべきだと必死に訴えていた、と吉川さんは振り返る。家族はその場を逃れた。

 母が教えてくれた「命の重さ」を伝えるため、吉川さんは教師になった。校長を最後に教職を退き、島に戻った今は、地元の子どもや修学旅行生を相手に平和学習の案内役を務める。「自分たちの歴史を知り、戦争のない社会をつくってほしい」と語り続ける。

 その島で、沖縄国際大名誉教授の安仁屋政昭さん(72)は88年、かつて村の兵事主任だった故富山真順さんから、ある証言を聞いている。

 富山さんは45年3月20日、戦隊からの命令で17歳未満の少年と役場職員を役場の庭に集めた。兵器係の軍曹が住民二十数人に手投げ弾を2個ずつ配り、「敵に遭遇したら1発は敵に投げ、捕虜になる恐れのある時は残りの1発で自決せよ」と訓示した、という。

 沖縄ではいま、「集団自決」を巡る教科書検定で「日本軍による強制」が削除されたことに強い反発が起きている。安仁屋さんは言う。「富山さんの話は自決命令の存在を示す重要な証言だ」

集団自決巡る検定意見、全会一致で撤回要求 沖縄県議会

2007年06月23日 04時24分09秒 | 沖縄の旅
2007年06月22日15時19分 朝日COM

 高校生の日本史教科書の検定で、沖縄戦の際に日本軍が住民に集団自決を強制したという記述が削除された問題で、沖縄県議会(定数48)は22日、検定意見の撤回と記述の回復を求める意見書を全会一致で可決した。意見書は集団自決について、「日本軍による関与なしに起こり得なかった」としている。あて先は首相、文部科学相などで、議員団が同日上京し、要請した。

写真:文部科学省の布村官房審議官に意見書を手渡す前島・沖縄県議会文教厚生委員長=22日午後

図主な集団自決の場所と、議会で意見書を決議した市町村

 意見書は、文科省が集団自決について「日本軍の命令があったか明らかではない」「最近の研究成果で軍命はなかったという説がある」としているのに対し、「日本軍による関与なしに起こり得なかったことは紛れもない事実であり、今回の削除・修正は体験者による数多くの証言を否定しようとするものである」と反論している。

 そのうえで、「筆舌に尽くしがたい犠牲を強いられた県民にとって、今回の削除・修正は到底容認できるものではない」と批判している。

 意見書を巡っては、野党側は当初、集団自決には「軍の命令・強制・誘導」があったと明記するよう要求。これに対し、自民党が「軍命はなかったとの証言もある」などと難色を示した。だが、県議会として検定意見の撤回を求めることを優先し、「日本軍による関与」との表現で与野党が折り合った。

 7人の沖縄県議団は22日、文部科学省や内閣府を訪れた。前島明男・文教厚生委員長によると、文科省側からはこれまでと同様、「検定調査審議会が客観的に判断している」という趣旨の説明しかなかった。前島委員長は面会後、「誠意が感じられない」と語った。

 一方、県内の市町村議会でも検定意見の撤回を求める意見書の可決が相次いでいる。22日現在、41市町村の議会のうち36議会に上っており、残りのほとんどの町村議会も可決する見込みだ。

あの、吉村さんの写真とは直接関係ないんですが・・・・・。

2007年06月22日 18時34分32秒 | 歩く印象派
東京三鷹市にある「中近東文化センター」に行ってきた。
目的は「魅惑のペルシア陶器」2007年3月10日(土)~2007年7月8日(日)見学のため。同行者は窯業専門家のR氏と風貌が上の吉村先生によく似た謎のエンジニアONE氏のお2人。この種の展示では珍しく写真撮影OKだったので、どーんとご紹介する予定。
     以下「魅惑のペルシア陶器その1」へ続く

椎名豊トリオのライブ

2007年06月22日 18時33分18秒 | Rock 音故知新
>情報提供は友人のM本氏。

ピアニスト椎名氏はM本家と親しい関係。
先日もM本宅にて2時間もピアノを弾きまくったというからすごい。
現在、都内のライヴハウスを中心に、デューク・エリントンやセロニアス・モンクのトリビュート・コンサートを行うなど精力的な活動を続けている。
コンテンポラリー・スタイルのピアニストだ。
(コンテンポラリー・スタイルというのは1970年代フュージョン世代以降、フォービートにとらわれないスイング感を持ったジャズを総称して"contemporary=現代風な"と言い表したことから始まるのだそうだ。)

Yutaka Shiina Special Trio

Yutaka Shiina 椎名 豊(p)
Rodney Whitaker ロドニ-・ウィテカ-(b)
Gregory Hutchinson グレゴリー・ハッチンソン(ds)

椎名豊公式HP