農業じゆう人

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端午節にちまきをたべるのは?

2018年05月09日 12時22分15秒 | 話題
   きのうに引き続いて寒い!  ここんところの気候を象徴するような極端さ!
   驚くより、私メのような年寄りは体調維持の方が大変です。
   きのうは急ぎ冬服を取出し、寝る時には毛布を取り出すなど対応に大わらわでした・・。
   時期外れの対応は大変なこと!と言いつつ、今日の話題こそ時期外れ(過去)の話です。

   二月十四日がすぎるとチョコレートが、クリスマスがすむとケーキが投げ売りされると聞く。
   いづれも時期外れになったからだが、チョコレートやケーキが登場する前は、同じことを
   「六日の菖蒲(あやめ)、十日の菊」といっていたという。
   菖蒲は五月五日の端午節に、菊は九月九日の重陽(ちょうよう)節の飾りにふんだんに使われる
    が、その節句を過ぎてしまえば、誰も見向きもしなくなることから作られた表現だそうだ。

   日本では「端午」が「子どもの日」とされるが、「端」は「はじめ・最初」の意味であって、
   「午」は十二支のウマだから、「端午」はもともと五月最初のウマの日のことだった・・?
   ところが「午」と「五」が同じ発音なので、やがて五月五日が「端午」の日とされるように
    なった・・という?

   中国文化圏では祝日になるその日は、戦国時代の憂国詩人として知られる“屈原”の命日と
    されている。 長江流域にあった楚で内政と外交面で活躍した屈原だが、彼をねたむ者
    からの誹謗(ひぼう)中傷を信じた王に追放され、放浪の果てに、汨羅(べきら)という河に
    身を投じた。 それが五月五日だったというのだそうだ・・?
   南朝・梁の時代に作られた『續齊諧記』(ぞくせいかいき)という文献によれば、屈原亡きあと
    人々は彼をしのんで、命日の五月五日にコメを入れた竹筒を川に投げ込んで供養として
    いた。

   そんなころ“區曲”という者が汨羅のほとりを歩いていると、屈原の亡霊に出会ったという。
   亡霊は區曲に対して「端午節にはみんな私を祭ってくれるが、投げられた供物は水中にいる
    龍に食べられてしまい、私には届かない。 そこでこれからは供物を楝(おうち)の葉で包み、
    さらにそれを五色の糸でしばってほしい。 その二つは龍が嫌いなものなので、そうして
    もらえるとお供えが私のところに届くハズだ」と告げたという。
   區曲がさっそくそのことを人々に教え、それから五月五日には楝の葉で包み、糸でしばった
    食品を作り屈原をしのんだという。   これが「綜子」(中華ちまき)のルーツであり、
    のちの中国では笹で包むのが一般的だったのに対して、日本では餅を茅(ちがや)で包んだ
    ことから「茅(ち)まき」と呼ばれるようになった。

   このようなこと考えたこともなく、時季のモノとして柏餅らと同様に食べていました~。