行雲流水

仏教をテーマとした記事を掲載しています。

威張る人は滅びる

2014年05月13日 | 禅の心
寒山詩の60番です。

田舎多桑園 牛犢満廏轍
肯信有因果 頑皮早晩裂
眼看消磨盡 當頭各自活
紙袴瓦作褌 到頭凍餓殺



田舎桑園多く 牛 犢廏轍(とくきゅうてつ)に満つ
肯(あ)へて因果の有るを信ぜんや 頑皮も早晩(いつか)裂(さ)けん
眼に看る消磨(しょうま)し盡(つ)くすことを 當頭各(おのおの)自(みずか)ら活(い)く
紙の袴瓦もて褌(しめすへんに昆)となし 到頭凍餓して殺(し)す。



田舎には桑畑が多く、親子の牛が家畜小屋に満ちあふれている。
お金持ちで生活に困っていない人は、因果応報の法則を信じようとはしない。
 そのような頑固な性格はいつか破られるだろう。
 そういうやつらの財産は消えてなくなることは目に見えて明らかである。
 とりあえず、各で生計を考えなければならない。
 紙で袴を作って、瓦で褌をつくって身につけ、挙げ句の果てには餓死したり凍死したりする。


寒山の皮肉と言うよりも、残酷さすら感じます。しかし、おごり高ぶっていて謙虚さのない人はいつか失敗して、滅んでしまうものです。自分を省みて、慎ましく生きていくことが大事です。

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博学という愚者

2014年05月09日 | 禅の心
心高如山嶽 人我不伏人

解講韋陀典 能談三教文

心中無慚愧 破戒違律文

自言上人法 称為第一人

愚者皆讃歎 智者撫掌笑

陽炎虚空花 豈得免生老

不如百不解 静坐絶憂悩




心高きこと山嶽(さんがく)のごとく      人我(にんが)人に伏せず

韋陀(いだ)の典を講ずることを解し     能(よ)く三教の文を談ず

心中に慚愧(ざんき)なく            戒を破りて律文に違(たが)ふ

自ら上人の法と言ひ               称して第一人と為(な)す

愚者は皆、讃歎(さんたん)すれど      智者は掌を撫(う)って笑ふ

陽炎虚空の花                  豈(あ)に生老を免るを得んや

如かず百不解                  静坐して憂悩を絶たんには




自分の心は山のごとく高く 我執が強くて負けず嫌いである。

ヴェーダの聖典を講釈することもでき、儒教、仏教、道教の三教の語句を丸覚えしていて暗唱することなど得意である。

心の中には恥じる気持ちなどなく、戒律を破り背いている。

自分では優れた人のために説く者だといい、自分こそ第一人者だと思い込んでいる。

愚かな人はすべて彼を賞賛するが、物事の本質のわかる智恵のある者は手をたたいて冷ややかに笑っている。

このような人は陽炎かかすんだ目で見る花のように空しいものだ。

どうして、生死や輪廻の迷いの世界を免れようか。

そんな、博学を鼻にかける馬鹿を相手にするよりは、むしろ何もわからないで坐禅して苦悩を絶つことの方がよい。




これは寒山誌の227番です。

寒山が知識が豊富なだけで中身のない人を痛烈に批判しています。

現代人もそうです。東大を出ていても何も中身のない人もいます。知識だけなら広辞苑の方が優秀ですし、頭の良さならコンピューターの方がいいのです。知識ではなく哲学する心、自分の頭で考えることが大事なのです。

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奇跡が起きるとき

2014年05月06日 | 親鸞・歎異抄・浄土真宗
かつて、広島に藤秀翠(ふじしゅうすい)という浄土真宗のお坊さんがいました。藤秀翠師は念仏によって利益を得るということは親鸞聖人の最も嫌うところだと、念仏はただひたすら唱えるものだと考えていました。そんな純粋な念仏者の藤秀翠に奇跡が起きたのでした。藤秀翠師は昭和20年8月6日に門徒の家に朝から出かけることになりました。普段は門徒衆の家に出向くのは午後からで、その日はたまたま朝から出かけることになったのです。そして門徒の家に着くと急にお腹が痛くなって母屋の外にあるトイレを借りることにしました。そしてトイレに入っているときに閃光と大きな音がしました。トイレの外に出てみると門徒の家の母屋は崩れ、トイレだけが残っていて藤秀翠師は無事だったというのです。門徒の家族はみな家の下敷きになって亡くなっており、寺に帰ってみると原子爆弾によって寺は跡形もありませんでした。



 松原泰道先生が北海道から青函連絡船で帰るとき先輩から、乗船予定の船より早く帰れと勧められて早く帰ったところ、乗船予定の洞爺丸の大惨事が起こりました。



 信仰によって奇跡が起きるということは仏教では嫌いますが、純粋な信仰心が大きなるものを呼び込んで動かすということはあるのかもしれません。

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天上天下唯我独尊

2014年05月02日 | 禅の心
澤木興道老師の言葉です。



  徳川時代の儒者は、「釈迦という奴は傲慢な奴じゃ。天上天下唯我独尊などと言いおって」と言うておるが、そうじゃない。 天上天下唯我独尊はお釈迦さまばかりではない。だれでもかれでもみんな天上天下唯我独尊じゃ。 それを天上天下唯我独尊をもち歩きながら愁嘆いうとるだけじゃ。天上天下唯我独尊を、自分において実現するのが、仏道である。



他に真実を探すのではなく、自分の中に真実を見つけていくのが禅の心です。自分の中に真実を見つけるとは、自分の頭で考えてみることです。権威や世間の声に惑わされるのではなく、ひたすら自分の中に真実を見つけていくのです。

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