行雲流水

仏教をテーマとした記事を掲載しています。

烏鷺滝禅話集(12)

2018年09月28日 | 仏の心
〇花は「何のために生きているのか」と思わず、ただ咲いているのが美しいんじゃ。人間も「只(ただ)やる」ことが値打ちなんじゃ。

〇「がんばろう」「絆」「感謝」「こころの○○」など、使いすぎると薄っぺらな言葉になっちゃうよ

〇美味しいものを食べさせてもらっている豚は自分が飼い主に可愛がられていると思っているが、飼い主は美味しい豚肉にするために美味しいものを食べさせているのだ。
自分はこの豚ではないか問うてみる必要がある。

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烏鷺滝禅話集(11)

2018年09月25日 | 仏の心
博多の仙涯和尚の最期の言葉「死にともない(死にたくない)」悟っているからこそ、当たり前のことをありのままに出せるんじゃよ。

禅は言葉にとらわれてはならぬと戒めておるが、言葉をとても大切にしておるのが禅でもあるんじゃ。

他人に勝って自己肯定感を高めるという、間違った教育を改めん限り、イジメは少のうならんよ。



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烏鷺滝禅話集(10)

2018年09月21日 | 仏の心
他人と比較したり、競争によって得られた「自己肯定感」なぞは、もろく、崩れていくものじゃ。
誰とも比較できん自己をつくっていくのが禅なんじゃよ

他人と比較したり、競争によって得られるのは「自己肯定感」ではのうて、ただの「優越感」でしかないんじゃ。「自己肯定感」とか「自尊感情」と呼ばれるものは、愛情によって育まれていくものなんじゃ。

禅は弱い自分が弱いままで生きていく道なんじゃよ。

坐禅して、心を強くしようとか、胆力をつけようとか、雑念を払おうなどと思わない方がよい。坐禅は何にもならないから値打ちがあるんじゃよ(意味がわかるかの)

「わかりやすい」に騙されんさんな。ちいたあ、難しいモノを読んで、自分の頭で考えるクセをつけにゃあ。

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平和を貫いた柴山全慶老師

2018年09月18日 | 仏の心
 8月29日は寒松軒・柴山全慶老師が遷化された日です。柴山全慶老師(1894-1974)は、戦時中、エスペラント語を用いて平和運動をしようと考えていた方です。戦時中の仏教界、特に禅門では、戦争に協力するのが当たり前という雰囲気でした。そんな中で、平和を切望していた老師に敬意を表せずにはおれません。老師は奥様と長男を同時に亡くすという深い悲しみを乗り越え、南禅寺派管長を務められました。老師は柔和なお顔をされていましたが、苦難と悲しみを乗り越えられて得られたお顔なのです。


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自然に学ぶ

2018年09月14日 | 仏の心
泣露千般草

吟風一様松

寒山のあまりにも美しい詩です。寒山は中国の唐の時代のお坊さんで、
拾得というお坊さんと仲が良く、寒山も拾得もいつもニヤリと笑った姿で絵に描かれています。
子供のように無邪気で、日本では一休さんのような存在と言っていいと思います。
子供のように無邪気で明るい人には二通りあります。
全く精神的に成長していなくて、子供のままの無邪気さをもった持った人。もう一つは悩み、苦労をして辛酸をなめたことを乗り越えた明るさをもった人です。寒山拾得や一休さんの明るさ、無邪気さは、後者の苦難を乗り越えたものであることは言うまでもありません。
鉄でもたたかれて、きたえられて強くなります。人間もそうだと思います。強い人間とは、しなやかさ、優しさをもった人です。鉄がいくら固くても、しなやかでなければ、もろく、割れやすくなります。

さて、この寒山の詩ですが、ちょうど今頃の季節の様子でしょうか。千草が露の重みでうなだれているのを、千草が泣いているようだと表現し、風になびいている松の枝の音が、松が吟じているようだと表現しています。
あまりにも美しい光景だと思います。
私は自然を鑑賞するものではないと思ってい
ます。自然は自分そのものであり、自然の光景は自分の心の中の姿だからです。美しいものを素直に美しいと思うのは、自分の心のはたらきだからです。

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