行雲流水

仏教をテーマとした記事を掲載しています。

永遠のいのち

2022年08月26日 | 禅の心
仏教は心の奥底(阿頼耶識のさらに奥)にある、永遠の「いのち」を信じて生きること。
永遠の「いのち」は時には《仏心、仏性》、時には《光明》時には《天地いっぱいのいのち》ということができるのかもしれない。
永遠の「いのち」を信じることを「南無」という。
心の中のものを信じるから信仰ではなく、《信心》



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カルトについて

2022年08月23日 | 仏の心
〇カルトの被害に遭われた方を揶揄したり嗤うのは筋違いだ。ワラをも掴む気持ちのときに掴んだワラがカルトだったわけで、社会に間違ったワラを掴ませない構造が必要なのだ。騙されるのが悪いのではなく、騙す側が悪いのだ。一番掴んではいけないワラは自死なのだが。

〇カルトの多くは「問いに対する答え」がマニュアル化されていて、人生の疑問にきちんと答えてくれるところがある。宗教は答えを提供することより、各自の問いを考えるヒントを提供するものだと思うのだが。



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事事無礙法界

2022年08月19日 | 仏の心
事事無礙法界(華厳経)も、「阿弥陀の方からワシになる」(浅原才市)も、「仏など糞かきべら」(臨済禅師)も、宗教の発展的解消と言ってもいいと思います。カリスマや教祖に依存するでもない、自分の外の神を拝むでもない。宗教団体からお金を巻き上げられるでもない。自分と毎日の生活が宗教だから、もう宗教は必要ないのです。毎日の生活が修業であり祈りであればいいのです。




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阿弥陀の方からワシになる

2022年08月16日 | 仏の心
私は宗教に対して嫌な思いをしてきたので、宗教が好きなわけではありません。宗教は素晴らしいものだとも必要なものだとも思っていません。むしろ宗教に依存したり、宗教が元で争ったりすることが危険だと思っています。宗教は石膏の美術品の鋳型のようなもので、作品が完成すれば鋳型はいらないように、人間が完成すれば宗教は捨ててしまえばいいのです。というよりも美術品は鋳型そのものの本質を内在しているのですから、宗教がいらないというよりも、日々の生活が座禅であり念仏であり祈りであればいいのです。神や仏が自分の中にある状態と言ってもいいのかもしれません。これが才市さんのいう「阿弥陀仏の方からワシになる」ことで、華厳経の「事々無礙法界」ではないでしょうか。
ただ、才市さんのような心境になる人はまれで、私のような凡人にはとても到達できないことです。

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わからないことはわからないままでいい

2022年08月12日 | 仏の心
人生、「これで大丈夫」と言い切れるものがなく、不安だから、絶対的なもの、強いカリスマや教祖に頼りたくなるのだ。カルトやニセ科学、陰謀論に負けないためには、「人生、不安なことばかり」「答なんて出なくたっていい」と割り切ること。

陰謀論やカルトにはまらないためには自分の思考は歪んでいないかを客観的に点検しておくことが必要

人生の意味、世の中の裏など誰にもわからないことを答えてくれるのがカルトであり、陰謀論だ。しかしそれは本当の答えではない。答えを知りたい真面目で純粋人にはカルトや陰謀論にひかかる人もいるのではないだろうか。

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