行雲流水

仏教をテーマとした記事を掲載しています。

正義が悪になる日

2010年11月30日 | 禅の心
戦後、未解決の凶悪事件は、かなりの数にのぼっています。警察の方もご苦労なさっているわけですが、凶悪事件が解決して、平和で安全な日本であること望みます。

 その一方で、冤罪事件もあとを絶ちません。全く関係のない人が、犯罪者として世間にさらされ、大切な人生を無駄にしてしまうことになるのです。これほど残酷なことはありません。実際に犯罪被害に遭われた方も気の毒ですが、無実の罪を着せられて苦しむ方もこの世の生き地獄を味わうことになります。人は、見かけや感覚的なもので判断されやすいものです。そのことが差別や無実の罪を生むことになります。犯罪捜査の過程で警察に寄せられる情報や、インターネットの書き込みの中には、どうみても人を見かけで判断していたり、根拠のない情報もあります。

 仏教では、ウソをつくことを戒めます。「無実の罪」を作る人も犯罪者と同様の罪になることを考えて、慎重に発言しなければなりません。

コメント (2)
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晴れの日の生き方、雨の日の生き方

2010年11月26日 | 禅の心
登山が趣味の人がいたとしましょう。心底、山歩きが楽しみなのです。しかし、誰しもやがて老いて、病気になり、死んでいきます。病気になって、山に登りたくても登れなくなれば、またそれなりの楽しみを考えておかなればなりません。たとえば、絵を描いたり、音楽を聴いたりなどです。病気になって、健康な時と同じように、山に登ろうとするのは迷いであり、苦しみであります。健康な時には健康な時の楽しみを、病気の時には病気の時の楽しみを見つけておきなさいというのが、仏様の教えです。

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烏鷺滝禅話

2010年11月23日 | 禅の心



○人生とは 黒いカラスと 白い鷺が飛び回っている 滝のようなものだ

○人の一生なんて、久遠の宇宙の命からすれば、滝の水が流れ落ちる時間のようなものだよでも、その短い時間をどう生きるかが問題なんだね。

○烏鷺(有漏)とは迷いの世界のことなんだ。カラスが不気味でサギが優雅だと、差別的に考えるのは迷いなんだ。

○いま、ここに生きていることが成功なのであり、この世に生まれてきたこと自体が勝ち組なのである。

○うつ病になったり、自殺する人が増えてしまった。昔のオトナは、人生、苦しいのが普通なんだと教えてくれた。でも今は楽しくないと人生ではないとみんな思っている。

○人が死んで、火葬されて骨の灰が残るが、そんなものはどうでもいい。死んで「空」だけが永遠に残るのだよ。

○運の悪いヤツは行動しない。行動しないから運が悪い。

○幸せは「頑張る」ことよりも、「祈り、願い」からもたらされる。

○純粋な「聖者」には人を救うことはできない。「聖者」が再び「凡人」にならなければ。

○本当に強いヤツは「どっちでもいい」と思っているものだ。これが「他力本願」であり、禅でいうところの「一得一失」ということである。

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慢心を捨てよ

2010年11月19日 | 禅の心
禅では、「自分は悟ったんだ」という増上慢を非常に嫌います。

禅において優越感に浸り、自己陶酔に陥ることを禅天魔と言って戒めています。

茶道や華道の師範と呼ばれる人たちにも、慢心に陥っている人はいます。

一定の境地や技術を身につけても、もう一度初心に返り、謙虚な気持ちで己の道に臨むことが肝要です。

このことは、禅や茶道、華道に限りません。

いわゆる人の上に立つ者の戒めとして、心がけなければならないことです。

人間、出世すれば威張りたくなりますし、高慢になってくるものです。

その高慢さによって、人から嫌われ、思わぬ失敗をすることもあります。

一昔前、「勝ち組」として、鼻高々だった人も、今ではその面影すらないという例もあります。

「おごる平家は久しからず」です。絶好調の時こそ、謙虚な心で生きていくことが大切です。

禅とは、自我を抑え、謙虚に生きる道なのです。

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「がんばるな」

2010年11月16日 | 禅の心
百尺竿頭に一歩を進む


スポーツ選手がお寺で座禅を組むのは悪いことだと思いませんが、何のために座るのだろうかと思うことがあります。度胸をつけるため、精神力を鍛えるため、集中力をつけるためなど、様々な目的があると思うのですが、私は頑張るために座禅をするのではないと思っています。
現代人は「がんばれ」という言葉が大好きです。ある意味、「がんばれ」病におかされています。しかし、残念ながら、禅では「がんばるな」と言っているのです。このような話をすると、顔を真っ赤にして「でたらめ言うな」と怒る人がいます。それは、鎌倉時代・室町時代から禅を武家政権の基礎固めに利用してきた名残りなのです。権力者としては、下の者に「がんばって」欲しいわけなのです。現代では「企業戦士」としてがんばって欲しいのです。
禅とは「もっと楽に生きよう」ということなのです。
頑張って、定年直後に倒れて亡くなってしまう人もいます。頑張ることが本当に良いことなのか、もう一度考えてみようではありませんか。

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