行雲流水

仏教をテーマとした記事を掲載しています。

烏鷺滝が正しい教えについて考える

2013年04月30日 | 禅の心
○親鸞聖人の唯円は、親鸞聖人の教えが異なって世間に広まっていることを嘆いて『歎異抄』を著したのじゃ。
○現代もしかりじゃ。まちがった仏教思想が広まっておるところがある。
○たとえば先祖供養は、儒教の考え方なのじゃ。ただ、わしは、先祖供養がまちがっていると言うているのではない。先祖供養は仏教本来の考え方ではないんじゃ。
○「空」は「むなしい」ということじゃあないんじゃ。
○親鸞聖人の「悪人」は文字通りの「悪い人」ではない。自分の醜さを自覚している人のことなんじゃ。
○「悪いことをする人」が救われるわけではないんじゃ。
○戦争を肯定するのは仏教ではない。戦争は不殺生戒を破ることになるからのう。
○世間の価値観にとらわれないのが仏教じゃ。

色めがねの悲しさ

2013年04月23日 | 禅の心
高田好胤先生の言葉です。



「すべての存在を自分色に染めて、それにとらわれている私たちであります。」

話すより聞く事が大事であると言われます。私たちは何も聞かずに、相手を先入観で判断しているところがあります。
相手の性格などを勝手に決め付けておいて、意外な一面があると驚くというようなところがあります。
私たち現代人は何かと白黒はっきりさせたがるところがあり、また、人間を分類したがる傾向もあります。血液型性格判断や精神分析などで人の性格をはっきり分類したがるものですが、人の心は混沌としていて掴みどころがないものでしょう。
それをあえて、色に染めて物事をみてしまうのは、人間の哀しい一面でしょうか。

烏鷺滝が偽善について語る

2013年04月19日 | 禅の心
○現代は一億総評論家時代じゃあ言われておるが、さらには一億総教育者時代じゃね。
○人間というものは他人の悪いところはよくわかるもんじゃ。
○一方、自分のことはわからんもんじゃ。
○自分のことは棚に上げて、他人のマナーがわるいのどうのと言うておるんじゃ。
○あたかも自分は善人であるかのように。
○これが、親鸞聖人のいう善人なんじゃ。
○親鸞聖人のいう「善人」は、「自分の悪い部分に気がつかない人」というようなことかな。
○それに対して、親鸞聖人の「悪人」は、自分の悪を恥じ、深く懺悔できる人なのじゃ。
○他人にマナーが悪いなどという前に、自分自身はどうなのかということを考えてみる必要があるんよ。
○仏教の基本は、人を批判するなどの外に向かうエネルギーを、反省、懺悔という内に向かうエネルギーに変えなさいということなのじゃ。

負けるが勝ち

2013年04月16日 | 禅の心
柔道では投げる練習よりも上手に投げられる練習をする事が、怪我をしないためには大切です。
同じようにスキーも滑る練習をする前に上手に転ぶ練習をしておくことが大切です。
人が挫折を感じて自ら命を断ったり、反社会的な行動に走ったりすることは昔からあることです。
特に生まれてから順風満帆な人生を送って来た人が大きな壁にぶつかると、その衝撃は大きいようです。
徳川家康は若い頃、かなりの臆病だったようでした。家康が三方ヶ原の戦いで武田信玄に敗れ、浜松に逃げ帰る時にあまりの恐怖に失禁、脱糞してしまったという逸話があります。本来、情けなくて忘れてしまいたい出来事だったのでしょうけど、家康は、この時の自分の様子を絵に描かせています。家康が床几(しょうぎ)にこしかけ、左足を揚げて、左手を頬に当てて苦虫を噛み潰したような顔をしている絵です。家康はこの絵を自分自身の戒めにしたとのことです。家康が江戸幕府260年の礎を築いたのもこの失敗があったからかもしれません。
また、塙保己一も出版元の奉公人に馬鹿にされた事に発奮して偉業を成し遂げたお話をかつてしました。
負けたことや失敗したことにこそ学ぶべきものは多いのかもしれません。