行雲流水

仏教をテーマとした記事を掲載しています。

阿頼耶識

2016年01月29日 | 禅の心
私たちの感覚には、見る(眼識)、聴く(耳識)、においをかぐ(鼻識)、味わう(舌識)

皮膚の感覚(身識)の六識の他に、自己愛である末那識、心の奥深くにある阿頼耶識があります。

阿頼耶識(あらやしき)は、ふだんは意識されない深層心理です。

しかしこれは、自我、ワガママな心が拠り所となる末那識(まなしき)に大きく影響されているのです。

私たちは、ついつい、自分の色眼鏡に物事を染めて見てしまいます。

自分で勝手に思っておきながら、現実を知って悩み苦しむ存在なのです。

「あばたもえくぼ」とはよく言ったもので、自分の好きな人のことは、何でもよく見えるものです。

逆に、自分の気に入らない人のことは、良い点でも悪く見えてしまいます。

寺で焚いているお香の香りも、お参りする人によっては、「とても良い香りだ」という人もいれば、

「臭い」という人もいます。これは人それぞれの感覚なので仕方がないと思います。

しかし、悪いことを良いことだと思い、良い行いを悪いことだと思う、歪んだ心を持っている人もいます。

昨今の様々な事件から「自分が楽しければ、何をやっても良い」という歪んだ心の持ち主が見受けられます。

そういう心は、末那識を通して阿頼耶識にはたらきかけ、いつか自滅させてしまうものなのです。

自分中心のワガママな心に気づき、清らかな心で生きていきたいものだと私自身思っています。

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色眼鏡をはずせ

2016年01月26日 | 禅の心
○最近、近隣諸国のことを悪く言う本がよく売れておるようじゃが、あんまり気分がええもんじゃないのう。

○中国や韓国は悪い人もおれば良い人もおる。

○アメリカ人も良い人もおれば悪い人もおるのじゃ。

○日本人だってそうじゃ。

○ある集団の構成員がみんな同じじゃとみるのは、単純思考というものじゃ。

○般若心経の空の思想は、とらわれたり、決めつけたりすると物事の本質がわからなくなるということなのじゃ。

○差別や、いじめの原因の一つは、とらわれたり、決めつけたりすることじゃと思うんじゃ。

○目の不自由な人たちが象を触って言いました。

ある人は、足を触って象とは柱のようなものじゃといい。ある人は、鼻を触って象とはホースのようなものじゃといい。またある人は、尻尾を触って象とはホウキのようなものじゃと言うた。

○どれも間違いではないが、象の本質ではない。

○物事をいろいろな角度から見ないと本質はつかめないよ。


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巌喚主人公

2016年01月22日 | 禅の心
瑞巌ずいがん和尚、毎日自ら主人公と喚よび、復また自ら応諾おうだくす。及ち云く「惺惺着せいせいじゃくや、喏だく。他時異日、人の瞞まんを受くること莫れ、喏喏だくだく」(『無門関』第十二則)


 瑞巌和尚という方は、毎日自分自身に向かって「主人公」と呼びかけ、また自分で「はい」と返事をしていました。「しっかり目を醒ましとるか?」「はい」「これから先も他に騙されんさんな」「はい、わかりました」といって、毎日ひとりで返答しておられたというのです。

私たちは世間にだまされないために、しっかりと自分で自分を生きていかなければなりません。

品物でもイベントでも、他人がいいと言っているから良いのではなく、自分が良いと感じるから良いのです。

何かわからないけど、世間で流行しているからいいのだと思うのではなく、自分の頭で考えて判断することが大事です。

瑞巌の師彦和尚は、石の上に座って座禅していた人です。自分で自分を呼んで「はい」と答えていました。

世間や政治家や宗教家に騙されたり、惑わされぬように、常に自分が主であり続けるためです。

神様ではなく、自分の中の宇宙いっぱいの自分を見つめるのが禅なのですから。



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門松は冥土の旅の一里塚

2016年01月19日 | 親鸞・歎異抄・浄土真宗
○日本には喪に服するという考え方がある。

○前年に身近に亡くなった人がいる場合、正月はせんし、年賀状も出さん。

○「忌」と「喪」とは違うものじゃ。

○人が亡くなってから49日までは、家族は穢れておるので、人に穢れを移さんようにせにゃあいけんというのが「忌」じゃ。

○「忌」が半ば強制的なのに対して、「喪」は自発的なもので、1年間は慎ましやかにしておこうということなのじゃ。

○これらは、日本の習慣であって、仏教思想とは関係がないんじゃ。

○仏教思想からすれば、穢れとか清らかとかと分けて考えることがおかしいのじゃ。

○一休さんは元日にしゃれこうべを棒の先につけて京都の街中を走り回ったという逸話があるじゃろ。

○生と死なんて一つのことの裏表で、分けて考えることはできんということなんじゃ。

○仏教徒としては、「喪」ということはどうなんかいのおと思うんじゃ。

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『驢鞍橋』を読む(1)

2016年01月15日 | 禅の心
鈴木正三(1679-1755)は江戸時代初期の旗本出身の禅僧です。

『驢鞍橋』は鈴木正三の弟子が正三の言葉をまとめたものです。

驢鞍橋とは、驢馬の骨のことです。中国で、戦死した父親の遺体を息子が探しに行くのですが、見つからず、驢馬の骨を拾って持ち帰った故事にちなみます。


一日示曰、仏道修行は、仏像を手本にして修すべし。
     仏像と云(いう)は、初心の人如来像に眼を著(つけ)て、如来坐禅は及べからず。
     只二王(におう)不動の像等に目を著(つけ)て二王坐禅を作すべし。


仏道修行は、仏像を見ることから始めなさい。仏像を見ているだけで仏様に近づけるような気持ちになるけれど、なかなか仏様の境地に至ることはできません。だから如来坐禅にはすぐには及びません。だから、まずは仁王様や不動様の気迫に満ちた姿を見て、積極的に行動し、二王座禅をやってみなさい。


私は偶像崇拝は好きではありませんが、仏像とは見ていて仏の境地に自分を近づけていくものだと思います。仏像から仏の魂を分けていただくのです。鈴木正三は、いきなり難しい如来像から始めるよりは、初心者はまず、仁王様や不動様のようにわかりやすいものから始めなさいと勧めています。仁王様や不動様を見ていると何となく元気が出てきて積極的に行動しようと思うようになるではありませんか。まずは心を沸き立たせることが坐禅の第一段階なのですね。私はいつも、仏教は虚無主義ではなく、虚無主義から脱出して虚無主義を超えるものであると言っています。プラスに考えていく訓練がまず第一歩だと思っています。

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