行雲流水

仏教をテーマとした記事を掲載しています。

尊厳

2017年03月31日 | 仏の心
高浜虚子の句に、
蜘蛛に生まれ 網をかけねばならぬかな

があります。

生物界には生態系があり、食物連鎖があります。
若き日の釈尊がある日、お城から出て田園地帯を散歩していますと、ちょうど今の日本の時期のように農夫が田畑を耕しておりました。耕している土の中から一匹の虫が出てきました。その虫をトンビが見つけて、くわえて舞い上がりました。そうしたら、トンビをみつけたワシがトンビをつかまえてしまいました。
釈尊は、一緒に歩いていた従兄弟の提婆達多(だいばだった)に
「悲しいね」
と一言もらしました。すると提婆達多は、持っていた弓矢でワシを射落としてしまいました。
生きとし生きるものは他の命を犠牲にして生きて行かなければならない。若き日の釈尊は大いに悩んだのです。
私たちは、命を大切にとか、不殺生戒を守ろうとかと言っても他の命を犠牲にしなければ生きて行くことができません。人間は場合によっては自分達の主張を通すために争い、傷つけ会い、殺し合うこともあります。私たちはそんな愚かな性を持ってこの世に生まれてきているのでしょうか。どんなに戦争反対と言っても地球上から戦争がなくならないのはなぜでしょうか。
人生最大のこの矛盾は誰にも解決する事はできないのかもしれません。しかし、ヒントはあるように思います。そのキーワードが、感謝とか尊敬という言葉だと思います。
食事の時には、他の命を犠牲にして生かさせていただいていますという気持ちをこめて「いただきます」と心をこめて言いたいものです。
人と喧嘩をしそうになれば、一呼吸置いて、相手のいい所を思い出したいものです。
そんなことではなかなか解決できないかもしれませんが、たとえ小さくても一人一人が明るく暖かい気持ちをもって、それを広げて行こうとすることが大事だと思います。

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大圓鏡智

2017年03月28日 | 仏の心
神社のご神体として、円い鏡が置いてあることが多いです。

鏡は、子供が来れば子供を写し、

お年寄りが来ればお年寄りを写し、

女性が来れば女性を写す。

男が来れば男の姿を写す。

また、大きな山や川、星空までも写します。

そして、前に立っていた人が、立ち去れば、跡形もなく姿がなくなってしまいます。

全く清浄無垢なものなのです。

これはまさに、三十三の姿になって人々を救う観音様の心なのです。

そして、これは私たちの姿なのです。

そして、ご神体の鏡は、円いです。

神の心は、清浄無垢で円いものなのです。

過ぎ去ったことにこだわるな。

お金や名誉など一時的なものだ。

あまり怒らず、丸い心で生きましょうよ。

そのように神さまは教えてくださっているのです。

鏡(かがみ)は神(かみ)なのです。

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差別は・・・

2017年03月24日 | 仏の心
差別は、差別する人間の心の弱さから生じるのです。

差別される人がいるから差別があるのではなく、

差別する人の心が差別を作り出しているのです。

他人をいじめたり、差別したりすることによって、

自分の心のバランスを保とうとするのですが、

結局はそれも一時的なもので、

いじめたり、差別をすれば、自分を危うくすることになるのです。

差別や、いじめは、麻薬や覚醒剤のように、

精神を一時的に和らげるかもしれませんが、

結局は、自分自身を壊し、

嫌な自分にしていくのです。

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彼岸会

2017年03月21日 | 禅の心
 関牧翁老師の言葉から

 三寒四温という盆地特有の京都にも、ようやく春が訪れようとしています。

ここ十有余年来、冬は比較的暖かく、「暖冬異変」という言葉もピンとこなくなったようです。

が、やはり暖かい春を待つ心に変わりはありません。

雪解けの水はにごり、河水が増水すると、

やがて奈良二月堂のお水取りの行事があり、

春は一段と身近に感じられます。

 日は一日一日と長くなり、

水だけでなく、人の心も和んできます。

長かった冬もまさに終わりを告げようとしているころ、

お水取りがすむと春が来るというのは、

かつては奈良を中心とした関西地方だけの言い伝えでした。

それが今では全国的に有名になりました。

お水取りには、観光と参拝をかねた人々が集まりますが、

この行事の前後には暖冬異変のときでも、

必ずと言ってよいほど雪しぐれが見舞います。

気象条件が一種の信仰の神秘にまでつながっているのでしょう。

それは古人の心が天地自然とともにあることを示しているともいえます。

 しかし、なんといっても

「暑さ寒さも彼岸まで」

ということわざの方がはるかに当を得て、

全国的に知られています。

お水取りの行事を知らない人でも、

彼岸は知っています。

彼岸は梵語の波羅密多から翻訳されたもので、

「到彼岸」

すなはち迷いのこの岸から悟りの彼の岸に到る、

という意味です。

彼岸は理想の国、桃源郷、浄土であり、

涅槃の岸のことです。

春分、秋分の日を中心に、

一年中でもっとも気候の中庸を得た一週間を期して、

この地上に仏国土の建設をこいねがう行事が、

春秋の両彼岸会なのです。

 同じ仏教国でありながら、

インドと中国にはこの風習はありません。

日本独特の習慣で、

いつ頃から始まったかは、

はっきりしませんが、

聖徳太子が春分の日に四天王寺の西の楼門の上に衆僧と共に立って、

落日をのぞみ往生をこいねがう、

いわば西方浄土を拝されて、

この日特に仏道を修し、

穢土の此岸を去って浄土の彼岸に到る因縁にもとづいて、

春と秋の二回つくられたと伝えられています。

それはちょうど現代になって何々週間と定められているのと軌を一にしています。

私は、この春秋二回に限らないで、

常に心を日に日に新たにして、

悠久に向かって絶えることなく生活の向上を目指していけば、

彼岸はすなはち此岸であり、

人々の却下が彼岸の理想郷になると考えています。

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おのれなりけり

2017年03月17日 | 仏の心
松原泰道師の言葉から

 お年寄りは自分が好きで年をとり、自分ですすんで体が不自由になったわけではありません。

好むと好まざるにかかわらず、誰もが生きていくうちに年をとっていくものなのです。

「子ども叱るな来た道じゃ 年寄り笑うな行く道じゃ」

という言葉のように、年寄りの老いた姿に将来の自分の姿を重ね合わせてみることが大切です。

 人ごとではなく、自分の将来の姿がそこにあるのだ、と考えることです。
 
 相手の中に自分の姿をみていく、

「おのれなりけり」と思う心です。

そのように思えば、自然と思いやりや相手を許す気持ちが出てくるものです。

 たとえば、年寄りを看病するとき

「おのれなりけり」の心を持っていれば、

冷たい扱いをしようとは思わないのです。

「自分が年寄りだったらこうしてほしい」

と思うとおりに世話をしてあげることでしょう。

 嫁と姑の問題でも同じです。

 姑は自分が嫁だったときを思い、

嫁は自分が将来姑になったときを思う。

相手を自分としてみることができれば、

自分である相手が悲しむようなことをしようとは思わないはずです。

 病人を世話するときも、

この「おのれなりけり」の心と、

観音様にお仕えするように

「この人が自分にいろいろな形で教えてくださって、自分を救ってくださるのだ」

という謙虚な気持ちをもつことです。

 ほかに介護する人がいないからといった消極的な気持ちや、

世話をすれば遺産が入ってくるといった

「お駄賃」が目的の気持ちではいけません。

これが自分のすべきことなんだと、思うことによって、

価値が違ってきます。

 なすべきことだから、どうしたらもっと楽しく、

苦労が少ないようにできるだろう、

という工夫や創造も生まれてくるでしょう。

 そのような態度でことにあたり、修羅場にも立ち向かっていけば、自然に道も開けてくるのです。





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