行雲流水

仏教をテーマとした記事を掲載しています。

かたよらない心

2010年06月29日 | 禅の心
かたよらない心

こだわらない心

とらわれない心

もっともっと 

もっと広く

それが般若心経 空の心なり

(高田好胤)

私は、支持政党を持ちませんし、何かの主義も持ちません。

何かに所属してしまうと、禅者としての生き方ができません。

まして、右翼だ、左翼だなどというのは禅者の生き方ではありません。

禅とは、自分ののぼせをさますことであり、広い心で生きることです。

どんな立場の人の話にも耳を傾けていく態度を持たなければ禅者とは

言えません。

ただ、平和を守り、いのちを大切にしていくのは、禅者に限らず、仏教者の使命なのです。

広島市中区・縮景園


縮景園は、狭い敷地に広い空間を表現しています。小さな人間ですが、心は広くありたいものです。

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宗教と道徳

2010年06月25日 | 禅の心
宗教と道徳は似て非なるものです。道徳は、権力者の都合によって変わって行くもの。宗教は永遠普遍の真理。カントのいう道徳法則の普遍的妥当性とは宗教に近いものなのかもしれません。戦争中にあっては、敵を多く殺傷することが道徳でした。時として、殺人が道徳になることもあるのです。江戸時代の「武士道」も道徳の一つです。そもそも武士道は、幕府が平和な時代に武士はかくあるべきということを示すのが目的だったと思われます。つまりは権力者が支配するための押し付け的なところがあります。
江戸時代には幕府や諸藩に忠実であれとうたったものでした。明治政府はこれをうまく取り入れ、明治維新から戦前までは、国家や天皇陛下に、忠実であれと置き換えたのでした。そして現代は会社や組織に忠実であれといったところでしょうか。
明治維新で武士道の精神の形を変えて行ったのは、山岡鉄舟らでしょう。ただ、山岡鉄舟は平和主義者なので、これを戦争への道に繋げようとは思わなかったと思います。ただ、武士道の精神を教育勅語に取り入れたのは確かです。
私が、武士道について疑問を持っているのは、人の命を軽んじたり、人の死を栄誉あるものにすり替えたりする点です。葉隠の有名な一節に、「武士道とは死ぬこととみつけたり」があります。江戸時代においては、主君のため、明治維新以降はお国のために死ぬことを美徳としているところです。
また、捕虜になって辱められるなら死んだ方がましだというようなものもありました。
人間、どんなときでも生きなければなりません。それを教えるのが教育であるはずです。武士道をすべて否定するつもりはありませんが、死を美徳とするのは現代にはそぐわないと思います。
人のものを盗んではいけない、人を殺してはいけないというのは道徳です。人のものを盗ることができない、人を殺すことができないというのが宗教です。悪いことをしてはいけないのではなく、悪いことができないという心を養うのが宗教なのです。
ただ、今の日本には宗教がないのが現実です。


鳥取県岩美町


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宗教は教育の根本

2010年06月22日 | 禅の心
山田無文老師は、愛知県のご出身で臨済宗妙心寺派管長と花園大学学長を歴任されました。老師が亡くなられたのは、昭和63年のことでした。昭和という時代の終わりとともにこの世を去った巨星だったと思います。

私が思うところでは、朝比奈宗源老師、大森曹玄老師など鎌倉や東京の老師は厳しく、父性的な禅風であるのに対して、山田無文老師、柴山全慶老師など、京都で過ごされることの多かった老師は、穏和で、母性的な禅風であったと思います。

無文老師がよく言っておられたことは、宗教は教育の根本でなければならないということでした。今の教育には宗教がないことを嘆いておられたような気がします。
そもそも、道徳は、権力者が民衆を支配しやすくするためのもので、時として変わっていきます。しかし宗教は永遠不変の真理なのです。
人のものを盗んではいけない、人を殺してはいけないというのは道徳です。人のものを盗ることができない、人を殺すことができないというのが宗教です。
ただ、今の日本には宗教がないのが現実です。
宗教のないところに現代日本の悲劇があるのかもしれません。

コメント (1)
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2010年06月18日 | 禅の心
若い人の漢字ブームにあって、「無」「喝」などの言葉がもてはやされていると言うことです。英語の言葉よりも漢字がカッコいいとみるのも時代の流れでしょうか。
「無」ですが、本当のニュアンスをつかむことが困難な言葉だと思います。
哲学者の鈴木大拙先生が、このような話をしていました。

昔、サトリという化け物がおった。サトリは人の心がよめるのじゃった。
ある日、木こりが、山で木をきっていると、サトリが現れて、
「お前、俺を捕まえて見せ物にして金儲けをしようと思っておるな。俺には人の思っておることがわかるので、絶対に誰にも捕まえられんののんじゃよ。」
と言った。木こりは、何も言わずに、ただひたすら、木をきり続けたのじゃった。
サトリは「お前、油断させて俺を捕まえようと思っておるな」と言った。
その時、木こりの手がすべって、斧が飛んでいき、サトリに当たって、サトリは気絶してしまったんじゃ。こうして、木こりは、サトリを捕まえたんじゃと。

悟りは、無心に自分のやるべきことを一生懸命やっている中で得られるものだという喩え話です。

何かに打ち込んで何も考えない。それが無心というもので、無心から悟りが得られるのです。だからこそ、道元禅師は、日々の生活の一つ一つの行為が仏の行為だと考えられたのです。
花は無心にして蝶を招く(良寛)

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随処作主 立処皆真

2010年06月15日 | 禅の心
随処に主となれば 立処皆真 なり

本題に入る前に、一言。法華経や密教教典を勝手な解釈すれば、危険思想になります。弘法大師もそのことを、恐れられたのでした。しかし、現代にはびこる、ニセもの宗教では、これらの教典を勝手な解釈して危険思想にもっていっている例がいかに多いことか。禅も例外ではありません。

随処作主 立処皆真 の句をみて、若い人は「主」に主眼を置きがちです。

もちろん間違いではありません。しかし「真」という言葉にも重きを置いておく必要がありません。

この言葉を、「自分の心は何ものにも束縛を受けず自由だ」という意味だけにとれば、危険です。

「自由」という言葉に弱いのが現代人です。禅で言う「自由」は文字通りの「自由」ではなく、「自分の置かれている状況の中で、精一杯やる」ことなのです。

仕事をするときには精一杯やり、休むときにはしっかり休む。病気になれば、養生する。その時々に自分の置かれた状況で精一杯生きることが、「随処作主」 であり、そうすれば真実のいのちに巡り会えるというのが「立処皆真」なのです。
晴れの日は晴れの日の生き方、雨の日は雨の日の生き方ができることが、本当の自由人なのです。


広島市中区
コメント (2)
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