行雲流水

仏教をテーマとした記事を掲載しています。

心の中の毒を自覚する

2013年06月28日 | 親鸞・歎異抄・浄土真宗
悪性さらにやめがたし、心は蛇蝎のごとくなり
(正像末浄土和讃)


○人の心の中にある悪はなかなかぬぐいきれぬ。人の心には蛇やサソリのような毒があるんじゃ。
○人の幸せを見て、本当に「おめでとう」と言えておるかの。
○幸せな人を見て、「ちぇっ」と思っておらんかの。
○人の不幸な姿を見て、「気の毒に」という腹の中では、クスクス笑っているというようなことはないかの。
○こういうのを、蛇やサソリの毒じゃと親鸞聖人はいうとりんさるんじゃよ。
○世の中には、正義の味方づらして、他人をたたく人がいる。
○まるで、ハエがたかるように、正義の名の下に人を叩くのじゃ。
○しかし、叩いている人は聖人君子ではない。
○正義の味方として私刑して自己満足にひたっているんじゃ。
○時には「死ね」などと平気で言う。
○「死ね」と平気で言うこと自体、罪を犯しておるんじゃ。
○自分では自分の中の悪や毒に気づくことなく、人を叩いておるのじゃ。
○自分の中の悪や毒に気づけば、そう簡単に他人を攻撃できるものではない。

今を生きる

2013年06月25日 | 禅の心
○どんなに偉い人でも死んだら同じことじゃ。
○死んで持って行けるものなど何もないぞ。
○お金も宝物も何も持って行けない。名誉も地位も持って行けないぞ。
○銅像造ってもろうても、いつかはそれものうなってしまう。
○この世に永久に残るものなど何もないのじゃ。
○これが諸行無常ちゅうもんじゃ。
○そしたら、生きとる意味がないのかと言えばそういうわけではない。
○今、この場所で精一杯生きとることがすばらしいんじゃい。
○今という時を精一杯生きることなくして幸せはないぞ。

グループぼけ

2013年06月21日 | 禅の心
○人間ちゅうもんは、数の多い方が正しいと錯覚しとるのお。
○数の多い方がまちごうとることもあるんじゃ。
○多数派が正しいと錯覚するのは危険なことなんじゃ。
○少数派の意見を認めないのは危険なことなんじゃ。
○多い方が正しいというのはグループぼけじゃの。
○多い方の意見が正しいという思い込みを捨てないとの。

正しくものを見る

2013年06月18日 | 禅の心
○人間は、他人にレッテルを貼るのが好きじゃのう。
○「坊さんは英語が苦手なのじゃろう。」と言う人がいるが、今の坊さんには英語が得意な人が多いぞ。
○物理学者や化学者で坊さんやっておる人もいるんじゃ。
○島根県人じゃから、物静かで控え目なんじゃ。というのもレッテル貼りじゃね。
○賑やかな島根県人もおれば、物静かな広島県人もおる。
○右翼じゃ、左翼じゃあいうのもレッテル貼りじゃ。
○他人に勝手にレッテルを貼ることによって何となく安心するんじゃね。
○それは、相手についてよくわからないから、レッテルを貼って安心するんじゃ。
○ついでに自分自身にもレッテルを貼ってしまう。
○多くの場合、レッテルを貼ることや勝手な思い込みによって、物事を歪んで見ておるんじゃ。
○仏教では、物事を正しく見る「正見」ということを重視しておる。
○自分で勝手にレッテル貼って、物事を歪めて見るのを我見とか我執という。
○それは、苦しみの元になるのじゃ。
○我見や我執は仏心を曇らしてしまうのじゃ。
○時々、自分の考え方や見方を点検してみる必要があるんじゃね。

仏に逢うては仏を殺し

2013年06月14日 | 禅の心
仏に逢うては仏を殺し、,祖に逢うては祖を殺し、羅漢(らかん)に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷(しんけん)に逢うては親眷を殺して、始めて解脱を得ん。 (臨済録より)


○臨済録のなかの有名な文言じゃの。
○物騒な言葉のようじゃが、言葉どおりとる必要はない。
○簡単に言えば、権威的なものに傾倒するなというこっちゃ。
○真実は自分の中に求めんさいということなんじゃ。
○権威を有り難がって自分を見失うのは愚かなことなんじゃ。
○新興宗教がそうじゃな。
○教祖様の言ったことが全てじゃと思って、自分を見失うから悲劇が起こるんじゃ。
○教祖様に逢うては教祖様を殺せじゃ。
○いちばん手強いのは世間という権威なんじゃ。
○世間という魔物に振り回されんこっちゃ。
○美しい、美味しい、使いやすいなどの世間の評価はあくまでも参考にして、自分の目で美しいものを探し、自分の舌で美味しいものをみつけ、自分の五感で使いやすいものを選ぶんじゃ。
○自分というものが欠落しておっては、本当に自分らしく生きることができんぞ。