行雲流水

仏教をテーマとした記事を掲載しています。

2018年01月30日 | 仏の心
企業のトップの人は、「夢を持て」というのが好きなようです。この場合の「夢」には、「欲」というニュアンスを含んでいる事が多いです。また、本当は「将来に対する理想的な自分の姿」を「夢」という言葉を使って表しているのだと思います。「夢」はあくまでも幻であって、仏教では「むなしいもの」「無常なもの」というとらえ方を基本的にはしています。
さて、道元禅師は悟りの象徴として「夢」という言葉を使っておられる向きがあります。
「夢中に夢を説く処、これ仏祖の国なり」
と言っておられます。夢中は悟りの世界ということで、「悟りの世界で人生の無常を説くのが、仏の教えです」というようなことになりましょうか。
道元禅師は夢という言葉を二つの意味で用いておられます。無常にとらわれるのも夢なら、この夢からさめたのも夢です。
さらに道元禅師は歌で「本末もまた偽りの九十九(つくも)髪 おもい乱るる 夢をこそ説け」とも言われます。人間の一生はつくも髪(白髪頭)になるまで夢(無常)だった。でもこの無常にとらわれてはいけないのです。


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2018年01月26日 | 仏の心
「喝」という禅語ほど、簡単に用いられているものはありません。

「喝」をよく使っていたのは、臨済禅師です。

しかし、臨済禅師よりも前に馬祖道一禅師が使い始めたと言います。

さて、「喝」をよく使っていた臨済禅師ですが、「臨済の四喝(しかつ)」として有名です。

有る時の一喝は金剛王宝剣の如く、有る時の一喝は 踞地 ( こじ ) 金毛 ( きんもう ) の獅子の如く、有る時の一喝は 探竿 ( たんかん ) 影草 ( ようぞう ) の如く、有る時の一喝は一喝の 用 ( ゆう ) を作(な)さず。


簡単に言えば、

1.何でも切れる金剛王宝剣のように、煩悩をスパッと断ち切る。

2.百獣の王ライオンのように、あたりすべての者が畏れおののく。

3.漁師が竿で草の下の魚を探るように、修行僧の力量を見極める。

4.喝の役割を示さない喝。・・・・・実は、これが一番重要なのです。

喝と言えば、若い人たちがカッコいい言葉としてむやみやたらと使うのですが、修行のできている者が使ってこそ意味のある言葉なのです。

喝は天の声であり、宇宙に響き渡る声です。

喝の役割を示さない喝とは、自分自身が宇宙と一続きであることを実感できる喝なのです。

喝の役割を示さない喝は、無心です。無欲です。何ものにもとらわれない清浄な心が発する喝なのです。

赤ちゃんがこの世に生を受けて発する第一声の「おぎゃー」という声が、「喝」と聞こえればそれでいいのです。

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白馬入芦花

2018年01月23日 | 仏の心
ある人が、白い画用紙を黒の絵の具でべったりと塗りつぶしました。
「これは夜空をカラスが飛んでいるところです。」
今度は、白い画用紙に何もしないまま、
「これは雪の中に真っ白なネコが遊んでいる絵です。」
これは一つの笑い話に過ぎませんが、黒く塗ったところに、黒いカラスを描くのと、白い画用紙に白い絵の具でネコを描くのとでは全く意味が違うことになります。

若い人の好む漢字の一つに「無」があります。夜空にカラスが飛んでいるときには、ちゃんとカラスは存在しているわけです。これは「無」であって「無」でないことになります。
「無」にとらわれてしまうのは単なる虚無主義でしかありません。
この世は、はかないと虚無感にとらわれてしまうのは、画用紙を真っ黒な絵の具で塗りつぶしている状態です。しかし、真っ黒な中に黒いカラスを見いだすことが大切なのです。つまり、はかなさの中に人生の意味や価値を見つけ出すことです。私たちは、いつか死にゆく存在です。全てのものはいつか滅びゆく運命にあります。だからこそ、有意義な人生を送って行かなければならないというのが、真っ黒に塗られた中に黒いカラスを見ることなのです。

白馬入芦花   白馬 芦花に入る

碧巌録の一節です。

白い馬が、白い花々の中に入っていく。

無になるが無ではない。

無の中に価値観を見つけよ。

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本当の御利益とは

2018年01月19日 | 仏の心
お寺に、受験合格の祈願に来て、願いが叶って、家族でお礼参りに来る人は多いです。
「娘は30倍の競争率を突破して合格しました。これも、仏様のおかげです。ありがたいことです。」
受験に合格したのは幸運でした。しかし、考えておかなければならないことがあります。あなたが合格したということは、たくさんの不合格だった人がいるということです。不合格だった人は泣いています。
本当の御利益とは、不合格だった人の気持ちがわかった上で、自分の幸運を喜ぶ事ができることなのです。


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因果一如

2018年01月16日 | 仏の心
世の中には、誠実で陰徳を積んでいる人なのにそれが報われなかったり、他人を傷つけたりいじめたりしている人に何も咎(とが)めがないなど、理不尽なことが多いものです。「善因善果」(良い事をすれば良い結果が生ずる)「悪因悪果」(悪い事をすれば悪い結果が生ずる)とは言いますが、現実にはそのようにならないものです。
道元禅師は
大凡(おおよそ)因果の道理 歴然として私なし。造悪の者は墜ち、修善の者はのぼる。

悪をつくりながら悪に非ずと思い、悪の報あるべからずと邪思惟するに依りて、悪の報を感得せざるには非ず。
悪い事をしても悪い結果にならないのは因果律が成り立たないのではなく、悪い事をしている事自体が悪い結果、すなはち因果一如とはこのことなのです。
蓮の花は花が開くと同時に蜂の巣のような実が出て来ます。つまり花という原因が実という結果と同時に現れています。同様に良い事をしているという事実そのものがいい結果なのです。

自分の行った良い行い悪い行いは時間というビデオテープに刻みこまれていきます。因果一如とは言っても、悪いことばかりしていればいつか悪い結果を生むものです。


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