行雲流水

仏教をテーマとした記事を掲載しています。

無知の知

2009年11月27日 | 禅の心
京都市右京区・西京区

無知の知は、ソクラテスの有名な言葉です。

何も知らないことを知ることは、本当の「知」を知りうる源です。

(私は「知」と知るを区別しています。)

さて、法句経の第63番の聖句に、次の言葉があります。



おろかさを 知るはかしこく 

かしこしと 思うは我の

おろかなれ


物理学という学問は、宇宙の法則を解明していく学問です。

アインシュタインの相対性理論や、プランクの量子論で宇宙の誕生やなりたちがわかると思いきや、

研究すればするほど、わからなくなってくるものです。

わからない事がわかってくるのが、物理学や化学なのです。

学べば学ぶほど、わからないことが出てくる。

わからないことが出てくることがわかるものなのです。


「自分は、頭が良い。」と思っている人は本当はそうでないのかもしれません。

「自分は善人だ。」と思っている人は本当はそれほど善人ではないのかもしれません。

「自分はまともだ。」と思っている人は本当はまともではないのかもしれません。


心の怖る(おそる)べきことは

2009年11月24日 | 禅の心
心の怖るべきことは 毒蛇悪獣怨賊 よりも甚だし  (遺教経)

ちょっとした心の緩みから信用を失ったり、人生を転落させてしまうことがあります。

自分勝手な考え方や、他人に対する思いやりに欠けた行動をしていると、健康であっても財産があっても

寂しい人生を送って行かなければならないことはあります。

健康や財産は、豊かな人間性があってこそ意味のあるものなのです。

近年、お金が何よりも大切だと豪語している人々を見て危惧しているところです。

山でマムシに噛まれても、人間性が失われるわけではありません。

クマに手を噛まれても、他人の心を傷つけるわけではありません。

強盗に襲われても、人生を棒に振るわけではありません。

最も怖いのは自分自身の 心なのです。

欲望や、自分中心に満ちた、自分の心なのです。

財産はあの世に持って行くことはできません。

しかし、身についた人徳はいつまでも持ち続けることができます。

特に 目標はない

2009年11月20日 | 禅の心
鳥取市 観音院


よく「あなたの夢は何ですか」「あなたの目標は何ですか」と聞かれます。

私の場合、「特にない」が正解です。

確かに自由主義の社会、特に市場経済の中を生きて行くには夢や目標は必要です。

金持ちになりたいとか、出世したいとか、有名になりたいとか。

夢や目標は若い人には必要なのです。

若い人には夢や目標をもって頑張ってもらいたいと思います。

しかし、仏の世界や神の世界には夢や目標は必要ないのです。

今、この時を一生懸命生きることが大切なのです。

晴れの日には晴れの日の生き方を、雨の日には雨の日の生き方を。

ただ、今という時を一生懸命生きることが、仏の道を歩むことなのです。

ある程度の年齢になれば、夢や目標を追い求めるよりも、よりよい今を生きることが大切だと思います。

観音様は、極楽浄土から娑婆世界に遊びに来られているのです。

男の出家者、女の出家者、男の在家信者、女の在家信者、男の子、女の子に姿を変えて。

再び極楽浄土に帰って行くまで、今という時をよりよく生きることが、観音様の心にかなうことなのです。

渋柿の 渋そのままの 甘さかな

2009年11月17日 | 禅の心
広島市安佐北区

松笠観音の三鬼堂のそばに、このような像がありました。

この格好は、持国天のようですが、頭は不動明王のようでもあります。

三鬼大権現の一つ、摩羅鬼神は不動明王の化身です。

(三鬼大権現は広島に抱けに見られる信仰対象です。)

摩羅鬼神は降伏(神仏の力で魔性を抑えること。)を司っているので、このまさにその様子を表したものです。

私たちの心には、常に魔性が住み着いているものです。

知らず知らずのうちに、憎しみ、怒り、愚痴、貪りなどの魔性がとりつくものです。

そのことに気づき、取り払って下さるのが、摩羅鬼神なのです。

心の中の魔性を降伏(「ごうぶく」と読みます)して、清らかな心を持ち続けたいものです。

三鬼堂には、3枚の鏡があります。

自分の顔をよく見て見よ!

怒った顔、愚痴を含んだ顔、貪りの顔

これらはみな、心の中に住む鬼なのです。

しかし、鬼の心はそのまま仏に変わっていきます。

「渋柿の しぶそのままの 甘さかな」

鬼の心があるからこそ、仏になれるのです。

鬼の心に気づかせてくれるのが三鬼大権現なのです

阿頼耶識と末那識

2009年11月13日 | 禅の心
私たちの感覚には、見る(眼識)、聴く(耳識)、においをかぐ(鼻識)、味わう(舌識)

皮膚の感覚(身識)の六識の他に、自己愛である末那識、心の奥深くにある阿頼耶識があります。

阿頼耶識(あらやしき)は、ふだんは意識されない深層心理です。

しかしこれは、自我、ワガママな心が拠り所となる末那識(まなしき)に大きく影響されているのです。

私たちは、ついつい、自分の色眼鏡に物事を染めて見てしまいます。

自分で勝手に思っておきながら、現実を知って悩み苦しむ存在なのです。

「あばたもえくぼ」とはよく言ったもので、自分の好きな人のことは、何でもよく見えるものです。

逆に、自分の気に入らない人のことは、良い点でも悪く見えてしまいます。

寺で焚いているお香の香りも、お参りする人によっては、「とても良い香りだ」という人もいれば、

「臭い」という人もいます。これは人それぞれの感覚なので仕方がないと思います。

しかし、悪いことを良いことだと思い、良い行いを悪いことだと思う、歪んだ心を持っている人もいます。

昨今の様々な事件から「自分が楽しければ、何をやっても良い」という歪んだ心の持ち主が見受けられます。

そういう心は、末那識を通して阿頼耶識にはたらきかけ、いつか自滅させてしまうものなのです。

自分中心のワガママな心に気づき、清らかな心で生きていきたいものだと私自身思っています。