行雲流水

仏教をテーマとした記事を掲載しています。

天魔

2013年01月29日 | 禅の心
天魔とは、仏道修行を妨げる悪魔のことです。日蓮聖人は、禅宗(臨済宗、曹洞宗)を禅天魔として批難しています。

 体罰による自殺の問題が話題になっていますが、私は一つにはスポーツの指導者の心の問題があると思っています。指導者は、実績を積み上げ、選手たちから慕われるようになると、精神的に未熟な人は、自分がとても偉くなったように思い、自分のすることは少々のことは許されるようになると思ってしまうのです。(もちろん、これとは別に自分の弱さを攻撃的に出ることでカバーしようとしている人もいます。)そして、選手を私物化して、無理に言うことを聞かせようとするのです。

 これは決してスポーツの世界だけのことではありません。私たち誰にでも心の中に住む悪魔の仕業なのです。「おれは、実績を残しているのだ」「おれは偉いのだ」と、社会的地位が上がっていくにつれて、悪魔も大きくなっていくのです。心の中の天魔は、周りから持ち上げられたり、絶好調になると暴れ回ります。

 威張らず、謙虚な人からは天魔は遠ざかっていきます。天魔は心の貧しさを栄養として、寄生虫のごとくその人を滅ぼしてしまうのです。

風狂という生き方

2013年01月25日 | 禅の心
頓知の一休さんこと一休宗純禅師は、元日にしゃれこうべを木の枝につけて京都の市中を歩き回るなど、一見世間に背を向けて生きているかのようでした。一休禅師は世間の価値観がこころもとなく、移ろいやすいものだということを身に染みて感じていたからです。
今回の体罰による自殺の一見にしても、人々は騒ぎ立てていますが、世間の中にも体罰を容認したり、勝利至上主義を唱える人々がたくさんいたのも確かです。世間というものはこころもとなくいい加減なものなのです。いじめも体罰も個人の問題ではなく、世間が作り上げている部分があるのです。
一休禅師は、そういう無責任な世間を批判しつつ生きてきたのです。風狂と言えば、狂っているようですが、一休禅師のように純粋に世の中を見つめていることなのです。世間一般からみれば一休禅師は狂っているように見えるのかもしれませんが、実は一休禅師がまともで世の中の方が狂っているのかもしれません。

仏教は社会主義か?

2013年01月22日 | 禅の心
釈尊は、カースト制度を否定し、徹底した平等を説きました。また、ダライラマ14世のような仏教社会主義者は多くいます。鈴木大拙博士は、社会主義に傾倒していました。このように、仏教をはじめ、宗教には社会主義的なところがあります。では、仏教は本当に社会主義的なのかというと、私は違うと思っています。仏教では、自分のものは仏様から借りているものと考えます。だからいつかお返ししなければなりません。自分の体でさえそうです。ここで注意しなければならないのは、自分のものではないと言っても、社会の共有財産ではないということです。あくまでも仏様からの借り物と考えるのです。仏教では中道を説きます。政治的にも中立であること、考え方が偏らないことに重きを置いています。そもそも仏教が政治思想になることがおかしなことなのです。

しかしながら、『四弘誓願』の第一に

衆生無辺誓願度

が、あります。多くの人を救うよう努力しますということです。仏教は社会主義的ではないと言っても、社会主義に通ずるものが多くあるのは確かです。

人権・環境・平和

2013年01月18日 | 禅の心
「人権・平和・環境」の3つは、「生命の尊重」という点において互いに関連があります。
そもそも釈尊の出家の動機の一つに「人権・平和」ということがあったのではないでしょうか。
バラモン教の階級制度による厳しい差別。近隣諸国の争い。これらのことは釈尊の目には哀しいものに写ったことでしょう。

道元禅師の『四摂法』の一つに「愛語」があります。
他人を傷つけるのは刃物だけではなく、言葉によってもなされてしまいます。
言葉は時として武器になってしまうことを考えておかなければなりません。
現代、毒を持った言葉であふれかえっているのは悲しいことです。

戦争になれば、自由は奪われるし、大切なものも失っていきます。戦争になれば人ごとではありません。自衛官が戦争に行くのではなく、みんなが悲しい思いをするのが戦争なのです。戦争だけはやめなければなりません。

澤木興道老師の言葉

2013年01月15日 | 禅の心
○宗教とは何ものにもダマサレヌ真新しの自己に生きることである。



○宗教をもって生きるとは自分で自分を反省し反省し、採点してゆくことである。



○ようつつしんで親だとか先祖だとか背景だとかで、値うちをもたそうとしてはならぬ。金や地位や着物で味をもたせてはならぬ。自分で生きてゆかねばならぬ。現ナマじゃ。宗教とは現ナマの自分で生ききることじゃ。




 私たちは、何にだまされているかというと、世間にだまされているのです。私たちは自分がどう生きるかというよりも、世間に合うように生きなければならないと思っているところが悲しいところです。時として世間の物差しほどあてにならないことはなく、世間に振り回されて生きることになるのです。世間の目を気にしたり、他人を批判するよりも、自分で自分を反省していくことが大切なのです。

 自分で自分を生きることが宗教的な生き方なのです。