行雲流水

仏教をテーマとした記事を掲載しています。

宮崎奕保禅師の名言

2014年08月29日 | 禅の心
学ぶということは、

真似をするというところから出ておる。

一日真似をしたら一日の真似や、

それで済んでしまったら。

二日真似して、それであと真似をせなんだら、

それは二日の真似。

ところが一生真似しておったら、

真似がホンマもんや

だから、真似が真似になってしまわんようにすること、

それが大事や。

そしてそれは、口で言うより実行や。

高田好胤師の言葉

2014年08月26日 | 禅の心
子供は親のする事を真似て学ぶものです。親が身をもって親にお仕えする親孝行、また、亡くなられたご先祖に対してはまつりごとをする。そんな親の後ろ姿を子供はじっと見ていて、いつとはなしに縦の人倫の道を学んで身につけていくのです。

山本太玄師の言葉

2014年08月22日 | 禅の心
「お坊さんは障子の糊のようなものだ」。「どんな立派な障子でも、糊が無かったならば、障子の桟(さん)と紙が離れて障子の役目をしない。しかし外から見ると、糊は有るか無いか分からない。お坊さんは、この糊のように、人の知らないところで人と人とが仲良くし、一切の物事が円満に成り立って行く様に働いてゆかねばならないのだ」。

 「いくら目が見えても、障子一枚向こうは見えない。いくら耳が聞こえても、一丁先の声は聞こえない。目や耳が悪くても、心の眼が開けたならば、世界中を見渡し、天地の声を聞くことができる。葬式や法事をする坊さんにはなれなくても、心の眼が開ければ、人天の大導師になることができる。これは誰にでもできることだ。お前でもやればできる」

仏説父母恩重経をよむ(4)

2014年08月22日 | 禅の心
懐胎守護の恩

 悲母(ひぼ)、子を胎(はら)めば、十月の間に、血を分け、肉を頒(わか)ちて、身、重病を感ず。子の身体(しんたい)、これによりて成就す。

臨産受苦の恩

 月満ち、とき到(いた)れば、業風催促して、へん身疼痛(へんしんとうつう)し、骨節解体して、神心悩乱し、忽然(こつねん)として、身を亡ぼす。

生子忘憂の恩

 もしそれ平安なれば、なお蘇生(そせい)し、来たるがごとく、子の声を発するを聞けば、己(おの)も生まれ出でたるが如し。

乳哺養育の恩

 その初めて生みしときには、母の顔(かんばせ)、花のごとくなりしに、子を養うこと数年なれば、容貌(かたち)すなわち憔悴(しょうすい)す。

廻乾就湿の恩

 水のごとき霜(しも)の夜(よ)にも、氷のごとき雪の暁(あした)にも、乾ける処(ところ)に子を廻(まわ)し、湿(しめ)れる処に己(おの)れ臥(ふ)す。

洗灌不浄の恩

 子、己(おの)が、懐(ふところ)に不浄を漏(も)らし、あるいは、その着物に尿(いばり)するも、手づから自(みずか)ら洗いい灌(そそ)ぎて、臭穢(しゅうえ)を厭(いと)うことなし。

嚥苦吐甘の恩

 食味を口に含みて、これを子に哺(ふく)むるにあたりては、苦き物は自(みずか)ら飲み、甘き物は吐きて与う。

為造悪業の恩

 もしそれ子のために、止むをえざることあれば、躬(み)づから悪業を造りて、悪道に墜つることを甘んず。

遠行憶念の恩

 もし子、遠く行けば、帰りてその面(おもて)を見るまで、出でても入りてもこれを憶(おも)い、寝ても覚めても、これを憂う。

究竟憐愍(くきょうれんみん)の恩

 おのれ生きている間は、子の身に代わらんことを思い、己(おの)れ死にさりて後は、子の身を護(まも)らんことを願う。

 かくの如き恩徳、如何にして報ずべき。しかるに長じて人となれば、声を荒らげ、気を怒らして、父の言(ことば)に順(したが)わず、母の言に瞋(いかり)を含む。すでにして妻を娶(めと)れば、父母に背き違うこと、恩なき人のごとく、兄弟を憎み嫌うこと、怨(うら)みある者のごとし。妻の親族来たりぬれば、奥の間に迎え入れて、饗応(きょうおう)し、己(おの)れが室に入れて歓談す。嗚呼(ああ)、噫嵯(ああ)、衆生(しゅじょう)顛倒(てんどう)して、親しき者は、かえって粗末に扱い、疎き者は、かえって親しむ。父母の恩重きこと、天の極まり無きがごとし。

 このとき、阿難、座より起(た)ちて、偏(ひとえ)に右の肩を袒(はだぬ)ぎ、長跪(ちょうき)合掌して、すすみて仏に告げていわく。世尊よ、かくのごとき父母の重恩を、われら出家の子は、いかにしてか報ずべき、つぶさに、そのことを説き示し給え。と

 仏、宣(のたま)わく。汝(なんじ)ら大衆、よく聴けよ。孝養の一事は、在家出家の別あることなし。出でしとき、新しき甘果(かんか)を得れば、持ち去りて、父母に供養せよ。父母これを得て歓喜し、自(みずか)ら食らうに忍びず。先ずこれを三宝(=仏・法・僧)に廻(めぐ)らし施さば、すなわち菩提心を啓発せん。父母病あらば、牀(とこ)の傍(そば)を離れず、親しく自ら看護せよ。一切のこと、これを他人に委ぬることなかれ。ときを計り、便宜を伺い、懇(ねんご)ろに粥飯(しゅくはん)を勧めよ。

 親は子の勧むるをみて、強いて粥飯を喫(きっ)し、子は親の喫するをみて、まげて己(おの)が意(こころ)を強くす。親しばらく睡眠すれば、気を静めて息を聞(か)ぎ、眠り覚むれば医者に問いて、薬を勧めよ。日夜に三宝を恭敬(くぎょう)して、親の病の癒(い)えんことを願い、つねに報恩の心を懐(いだ)きて、片時(かたとき)も亡失することなかれ。

 このとき、阿難また問いていわく。世尊よ、出家の子、よくかくの如くせば、もって父母の恩に報ずとなすや。

 仏宣わく、否、未だもって父母の恩に報ずるとはなさざるなり。親(おや)頑闇(かたくな)にして、三宝を奉ぜず。不仁にして物をそこない、不義にして物を盗み、無礼にして色に荒(すさ)み、不信にして人を欺き、不智にして酒に耽(ふけ)らば、子はまさに極諌(ごくかん)して、これを敬悟(けいご)せしむべし。もしなお闇(くら)くして、いまだ悟ること能わざれば、すなわち、ために譬えとり、類(たぐい)をひき、因果の道理を述べ説きて、未来の苦患(くげん)を救うべし。

 もしなお頑(かたく)なにして、未だ改むること能わざれば、啼泣(ていきゅう)歔欷(きょき)して、己(おの)が飲食(おんじき)を絶(た)つべし。親頑闇(かたくな)なりと雖(いえど)も、子の死なんことを懼(おそ)るるが故に、恩愛の情に牽かれて、強いて忍びて道に向かわん。

 もし親、志を遷(うつ)して、仏の五戒を奉じ、仁ありて殺さず、義ありて盗まず、礼ありて*(いん、「徭」の「おんなへん」)せず、信ありて欺かず、智ありて酔わざれば、すなわち家門(かもん)の内、親は慈に、子は孝に、夫は正に、妻は貞に、親族和睦(わぼく)し、婢僕(ひぼく)忠順(ちゅうじゅん)に、六畜虫魚まで、あまねく恩沢(おんたく)を被(こうむり)りて、十方の諸仏、天竜鬼神、有道(ゆうどう)の君、忠良の臣より、庶民万姓にいたるまで、敬愛せざるはなく、暴悪の主も、佞嬖(ねいへい)の輩(やから)も、兇児(きょうじ)妖婦(ようふ)も千邪(せんじゃ)万怪(ばんかい)も、これをいかんともすることなけん。ここにおいて父母、現世には安穏に住し、後世(ごせ)には善処(ぜんしょ)に生じ、仏を見、法を聞きて、長く苦輪(くりん)を脱せん。かくのごとくして、始めて父母の恩に報ずる者となすなり。

 仏さらに説(せつ)を重ねて宣わく。汝ら大衆、よく聴けよ。父母のために、心力を尽くして、あらゆる加味(かみ)・美音(びおん)・妙衣(みょうえ)・車駕(しゃか)・宮室(きゅうしつ)等を供養し、父母をして、一生遊楽に飽かしむるとも、もし未だ三宝を信ぜざらしめば、なおもって不幸となす。いかんとなれば、仁心ありて施しを行い、礼式ありて身を正し、柔和にして、辱(はずかし)めを忍び、勉強して徳に進み、意(こころ)を寂静(じゃくじょう)に潜(ひそ)め、志(こころざし)を学問に励ます者と雖(いえど)も、一度(ひとたび)酒色(しゅしょく)に溺(おぼ)るれば、悪魔たちまち隙(すき)を伺い、妖魅(ようみ)すなわち便りを得て、財を惜しまず、情を蕩(とろ)かし、忿(いかり)を発(おこ)し、怠りを増し、心を乱し、智を晦(くら)まして、行いを禽獣に等しくするにいたればなり。

 大衆よ。古(いにしえ)より今におよんで、これによりて身を亡ぼし、家を亡ぼし、君を危うくし、親を辱(はずか)しめざるはなし。この故に、沙門は独身にして、偶(つれあい)なく、その志を清潔にし、ただ道をこれ務む。子たる者は、深く思い、遠く慮(おもんばか)りて、もって孝養の軽重緩急をしらざるべからざるなり。およそこれらを父母の恩に報ずるのこととなす。

 このとき、阿難、涙を払いつつ、座より起(た)ち、長き合掌して、すすみて仏に申して申(もう)さく。世尊よ。この経は、まさになにと名付くべき、またいかにして奉持(ぶじ)すべきや。

 仏、阿難につげ給わく。阿難よ、この経は、父母恩重経と名付くべし。もし一切衆生(しゅじょう)ありて、一度(ひとたび)この経を読誦(どくじゅ)せば、すなわちもって乳哺(にゅうほ)の恩に報ずるに足らん。もし一心に、この経を持念(じねん)し、また人をして持念せしむれば、まさにしるべし、この人はよく父母の恩に報ずることを。一生にあらゆる十悪・五逆・無間(むけん)の重罪も、みな消滅して、無常道を得ん。

 このとき、梵天(ぼんてん)帝釈(たいしゃく)・諸天の人民・一切の集会(しゅうえ)、この説法を聞きて、ことごとく菩提心をおこし、五体地に投じて、涕涙(ているい)雨のごとく、進みて仏の み足を頂礼(ちょうらい)し、退きて、おのおの歓喜奉行(かんき ぶぎょう)したりき。

仏説父母恩重経をよむ(3)

2014年08月19日 | 禅の心
父母、年たけて気老(きお)い、力衰えぬれば、頼るところのものは、ただ子のみ。頼むところの者は、ただ嫁のみ。しかるに夫婦ともに、朝(あした)より暮れに至るまで、未だ敢えて一度(ひとたび)も来たり問わず。あるいは父は母を先立て、母は父を先立てて、独り空房(くうぼう)を守りおるは、あたかも旅人の、ひとり宿に泊まるがごとく、つねに恩愛の情なく、また談笑の楽しみなし。

 夜半、寝床冷ややかにして、五体安んぜず。いわんや、被(ふすま)に蚤(のみ)・虱(しらみ)多くして、暁にいたるまで眠られざるをや。幾度(いくたび)か転々反則して、独りつぶやく。噫(ああ)、吾(わ)れ何の宿罪(しゅくざい)ありてか、かかる不幸の子をもてるかと。事ありて、子を呼べば、目を瞋(いか)らして怒り罵(ののし)る。嫁も児も、これを見て、ともに罵り、ともに辱(はずか)しめば、頭(こうべ)をたれて笑いを含む。嫁もまた不幸、児もまた不順、夫婦和合して、五逆罪を造る。

 あるいはまた急用おこりて、急ぎ呼びて命ぜんとすれば、十度(とたび)呼びて、九度(ここのたび)違い、ついにきたりて給仕せず。かえって怒り罵りていわく、老い耄(ぼ)れて世に残るよりは、早く死して、この世を去られたしと。父母これを聞きて、怨念胸に塞(ふさ)がり、涕涙(ているい)瞼(まぶた)をつきて、目瞑(くら)み、心惑い、悲しみ叫びて曰く、噫(ああ)、汝(なんじ)幼少のとき、われにあらざれば養われざりき、われにあらざれば育てられざりき。しかして今に至れば、すなわちかえって、かくのごとし。噫(ああ)、われ汝を生みしも、もとより望みは外れたりと。

 もし子あり、父母をして、かくのごとき言(ことば)を発せしむれば、子はすなわち、その言とともに墜ちて、地獄・餓鬼・畜生の中にあり。一切の如来・金剛天・五通仙も、これを救い護ることあたわず。父母の恩重きこと、天の極まりなきがごとし。善男子・善女人よ、わけてこれを説けば、
 父母に十種の恩徳あり、何をか十種となす

   一には、懐胎(かいたい)守護の恩
   二には、臨産受苦の恩
   三には、生子忘憂の恩
   四には、乳哺(にゅうほ)養育の恩
   五には、廻乾就湿(かいかんじゅしつ)の恩
   六には、洗灌不浄(せんかんふじょう)の恩
   七には、嚥苦吐甘の恩
   八には、為造悪業(いぞうあくごう)の恩
   九には、遠行憶念(えんぎょうおくねん)の恩
   十には、究竟憐愍(くきょうれんみん)の恩

 父母の恩、重きこと天の窮まりなきがごとし。善男子・善女人よ、かくのごときの恩徳、いかにしてか報ずべき。仏、讃して宣わく