行雲流水

仏教をテーマとした記事を掲載しています。

澤木興道老師の言葉

2014年01月31日 | 禅の心
美味いいものをよって食って、ついに美味いものがなくなるというのは非常に悲惨な人生である。楽をよってしまったら、もう楽のしようがなくなってしまう。幸福ということは、 自分が貧乏に生まれ自分が難儀をしたからである。そうすると実際は難儀が難儀でなし、 楽が楽でなし、その何にもない処でヤッサモッサ大騒動してのたうち回っているのが、こ の凡夫というものである。さあ好きなものを追っかけるか、嫌いなものから逃げるのか・・・ そこにジーッとしているのが、一番幸福である。



毎日、贅沢をしていると、何もつまらなくなってしまいます。人間の欲は、もっと上を目指すようにできているからです。

大変な思いをして働いているから、休みの日がとても楽しいのです。

粗食をしているから、たまにご馳走を食べるととても美味しいのです。



人生、苦しみがあるから楽しみがあるのです。

内山興正師が西洋狂信者を斬る

2014年01月28日 | 禅の心
「周知のように、西洋文明というものは分別工夫を根本にしています。
しかし、分別知を学ぶ過程で大切なことは、あれかこれかを分別すると同時に、その相互関係を考えるということです。明治以来の学びかたはこの点でも決して悪くはなかった。ところが戦後、アメリカのやりかたをまねするようになって、おかしくなってきた。というのは、かつてアメリカ人たちは一刻も早くヨーロッパ列強と肩を並べるために、科学文明の能率を高めようと、あれか、これか、○か、×か、という方法をあみだした。このやりかたには、あれとこれとの関係を考える手数が省かれている。戦後の日本はこのやりかたをうのみにして、まず教育に採り入れたので、いまの若い人たちの顛には○か×しかない。大切な「相互関係を考える」という能力が抜きになっている。これは皆さんも痛感しておられると思う。
 しかもこの傾向は若い人たちばかりではない。戦後流行してきた新興宗教・・・仏教系を自称するものからキリスト教系を名のるものまでいろいろさまざまにあるが、あの連中の考えかたも同じだ。要するに○か×か、○とつけたものは盲信するが、×とつけたものには耳も貨さない。もう忘れられかけた浅間山荘事件の連合赤軍の連中は、自分たちだけの閉鎖状態のなかで、互いに○か×かをつけ合って一人ずつ消していった。
あのまま放置されれば最後にオレー人というのが現れたかも知れない。今日の新興宗教の連中にしても、ロをひらけば理屈ばかり並べたてているが、頭の中味はいたって単純、○か×かだけ。あげくのはてか狂信性という共通点まで持っている。

山田無文老師がキリスト教について語る

2014年01月24日 | 禅の心
わたくしがキリスト教に、限りなく愛着を感じながら、どうしてもついていけなかったのは、「いのり」であった。わたくしにはいのりの言葉がどうしても出ないのである。出せばすべてが偽りの言葉となり、浅薄な感傷にすぎなくなってしまうのである。
キリストも、偽善者のように、群衆の前で声を上げて祈るなといわれたはずである。密室の中で、神とただ二人のところでいのれ、と示されたはずである。それならもう、いのる言葉さえ不要のように思われる。神はすべてを知りたもうからである。わたくしは坐禅をするようになってから、坐禅こそ信のいのりであると思うようになった。絶対者の前に正しく自己を坐らせること、そして自己を全く忘却すること、そして一念の念もきざさない無心の状態にはいること、すなわち絶対者の中に自己の心身をささげつくすこと、そして絶対者と自己を全く冥合すること、ああ、これ以上のいのりがあろうか。

大西良慶師が平和を語る

2014年01月21日 | 禅の心
わしらの半生は戦争や。いくさ好きじゃね。わしも203高地の戦場に従軍僧として参加した。そりゃ、悲惨なものだったの、わずか六日間で死傷者一万六千人にのぼっての。わしは乃木将軍を憎んだ。悪意を持って帰っての、日本中、将軍の悪口いうて歩いた。殺し方がひどい。歩くところみな死骸やった。機関銃で撃ちまくる中を走らせ殺したとな。
わしは早くから原水爆禁止、軍備廃絶、非核武装の平和運動やってきたの。百歳の坊主がな。不殺生と慈悲、仏教は平和主義や。

中川宋淵老師の詩より

2014年01月17日 | 親鸞・歎異抄・浄土真宗


わが影の
わが影の
何にかも似る

尨犬(むくいぬ)の
黒きおののき

雷を
孕(はら)める 雲か

はた
猶太人(ぢゆう)の肥肉

真鶴の
白き仄(ほの)めき

されど
あはれ

骸に伸びる
ほどろ髪

空虚より
生り出でしもの

わが影の
わが影の

生きてあれど
生ける我

すでに息なし


歌人でもあった。中川宋淵老師の詩です。詩は読む人のとらえ方なので、この詩を解説することはしませんが、まだ若き宋淵老師の苦悩を感じとることができます。