行雲流水

仏教をテーマとした記事を掲載しています。

お地蔵様と閻魔様

2010年01月29日 | 禅の心
鳥取市・摩尼寺

最近、わが子のしつけがきちんとできない親が多くなったような気がします。

「挨拶しなさい。」と言えない親。

ものをもらっても「お礼を言いなさい。」と言えない親。

電車の中でわが子が騒いでいても黙っている親。

それどころか、「お金を払っているのだから、給食の時にいただきますと言わなくてもいい。感謝されるのはこちらの方だ。」という親もいます。

親というのは、わが子に愛情を注ぐとともに、悪いことをすれば叱り、厳しくしつけをする存在でなければなりません。

十三仏、あるいは十王としての、お地蔵さんは閻魔大王の化身です。

優しい表情のお地蔵さんは、その一面、死者を裁く裁判長の怖い表情の閻魔大王なのです。

そして、閻魔大王は死者を裁くと、どろどろに溶けた灼熱の鉄を飲み込むと言います。

人を裁くには自分に対しても厳しくなくてはなりません。

親はまさに子供にとっての、お地蔵様であり、閻魔大王なのです。

わが子が可愛いからこそ、叱るべきことはきちんと叱る。

そして、叱るためには自分に対する厳しさが必要なのです。

このことは、親に限らず、学校の先生についても言えると思います。

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直感も大切ですが

2010年01月26日 | 禅の心
島根県浜田市・多陀寺

日本は、古来の神道に仏教が共存してきました。

この二つは異質なものであるにもかかわらず、本地垂迹説に基づいて習合してきました。

神道には教典や教義(ドグマ)にはっきりしたものがなく、論理性に欠ける部分があります。

仏教も、神秘主義的な部分があったり、文学的、比喩的な面もありますが、そうでない部分も多いです。

また道元禅師や親鸞上人などは、極めて論理的思考のできる人であったと思われます。

「感性的」「論理的」という2つの対立する概念ですが、人間にはこれらをバランスよく持ち合わせることが大切ではないかと思います。

精神主義でもいけないし、理屈ばかりでもいけない。

昨年の10月に島根県と広島県にかかわる地域で、痛ましい殺人事件がおこりました。

亡くなられた方にはまことにお気の毒で、ご冥福をお祈りする次第です。

地元に住む者として、感じることがあります。

この事件の犯人に関していろいろな噂が飛び交っていることです。

しかし、それらは非常に感覚的なものです。

「こういう職業ではないか」

「外国人だ」

というようなものの他、特定の人の名前もでてきます。

しかしみな根拠がないのです。

むかし、西洋では魔女狩りがありました。

罪のない女性たちが、ただ怪しいというだけで、捕らえられ命を奪われていきました。

論理的に考えることが欠落していくと、人権侵害がおこったり、平和が乱されたりするのです。

最近、若い人の理系離れが叫ばれています。

感性の強い人はいても、論理的な面の弱い人が多くなってきているような気がします。


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穏やかに生きる

2010年01月22日 | 禅の心
中国の洪応明の『菜根譚』に

耳には耳の痛いことばかり、

胸には無念のことばかり、

それが わが心を磨く 砥石となる。

とあります。

いつも話すことですが、近年は欧米の考え方の影響から

「文句を言わなければ損だ」

「言ったもの勝ち」

という考え方が強くなってきました。

また、一億総評論家、一億総審査員 と言ってもいいくらい

他人を評価することをよしとする時代になりました。

このことは、ギスギスした人間関係を作り出し、ストレスの多い社会に仕立て上げられました。

このような世の中にあって、この菜根譚の言葉は、現代に生きる我々に、一筋の光を与えてくれます。

聞くこと、見ること嫌なことばかりだし、

良いわけも聞き入れられず、不本意な叱られ方をする。

人間、攻撃されて攻撃仕返せば泥沼に入って行きます。

澤木興道老師は、「坐禅は、打ち方やめー」だとよくおっしゃっていました。

攻撃されて、頭に血が上ったままではなく、冷静になって考えてみると、

「これは、自分を鍛えてくれる試練だ」と思えることができます。

そうは言っても、生身の人間には難しいのですが、

どこかで怒りを断ち切っていかなければならないでしょう。

誤解を受けても、黙っていればいいし、不本意なクレームをつけられても、甘んじていれば良いというのではありません。

しかしどこかで「打ち方やめー」をしなければならないということなのです。

自分の身に起こることは、自分を鍛えてくれるチャンスだと思えれば幸せなのだと思います。

(写真)梅の花は、厳しい寒さに耐えて、美しい花を咲かせます。

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施す心

2010年01月19日 | 禅の心
岡山県久米南町・法然上人の誕生寺


世の中は厳しいと言います。それはわかりきったことです。

最近、他人に対して「甘えるな」という風潮が強くなってきました。

私は「自己責任」という言葉があまり好きではありません。

世の中には、どうしても頑張ることのできない人がいるし、どうしても避けることのできない不幸があるからです。

社会的に立場の弱い人たちに対して、冷たい世の中になったなと思います。

募金活動をやっていると、

「働かずにタダで食べていけるなんて、調子よすぎるわ。」

と言う声が必ず聞こえてきます。(もちろんほんの一部ですが。)

働きたくても働くことができない人がいることが、想像できないのです。

立場の弱い人のことが、想像できなくなってしまうのです。

『ベルサイユの薔薇』で、マリーアントワネットが、

「パンが食べられなければ、お菓子を食べればいいじゃないの。」

と、トンチンカンなことを言う有名な台詞があります。

今、まさにそのような世の中になっているのだと思います。

「布施」という言葉があります。

菩薩行を修める者が実践しなければならない6つの徳目である「六波羅蜜」の一つに「布施波羅蜜」があります。

決してお寺にお金を納めることだけが布施ではありません。

募金をするのも、布施です。

阪神淡路大震災などの時のボランティアの方々も布施をやっておられたのです。

電車の中で、お年寄りや、体の不自由な方に席を譲って差し上げるのも、布施の一つです。

布施は、他人の幸せを願って「ちょっぴり損をしましょうや。」という考え方です。

人の幸せを願って生きることが、幸せなことだと思うのです。

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堪え忍ぶ世の中

2010年01月15日 | 禅の心
京都市北区・紫野大徳寺

昔、「近所の○○さんが、刑務所から娑婆に出てきんさんった。」

などと言っていました。

この場合の「娑婆(しゃば)」というのは、一般の人間の住む世の中という意味です。

しかし、「娑婆」はサンスクリュット語の「サーハー」の音訳で、

漢訳すれば、「忍土=堪え忍ばなければならない世の中」という意味になります。

刑務所の中の方が、堪え忍ばなければならないような気がしますが、もっともっと耐えなければならないのが、この世の中なのです。

「娑婆」世界では、

「自分も未熟で不完全な人間なのだから、ひと様の失敗も許してあげよう。お互い様じゃあないか。」

という、考え方でみんな生きていくことになります。

しかし近年、欧米の考え方の影響で、何かあるとすぐにクレームをつけたり、訴えたりする風潮が強くなりました。

本来の日本人は、寛容の心をもった民族です。

インターネットを見ても、誹謗、中傷、攻撃が多いのを見ると、悲しいものがあります。

娑婆世界では、お互い様なのです。

我慢できるところは、我慢していきたいものです。

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