例えば、「実存主義だ」「ニーチェだ」「やれ、サルトルだ」と言っている若者が人生に矛盾を感じて頭がおかしくなったり、自ら命を断つことさえもある。そんなとき「実存主義もニーチェもサルトルもどうでもいいではないか」と思えば救われるのだ。哲学も宗教もどうでもいいのだ。大事なのは、今、ここに生きているという事実だけなのだ。
雲門禅師「生まれてすぐに天上天下唯我独尊などという化け物の赤ん坊などすぐに叩き殺して犬にでも食わせてやったものを」
一休さんも「釈迦という いたずら者が 世に出でて 多くの者を 迷わするかな」
雲門禅師「仏は糞かきベラじゃ」
臨済録「仏に逢うては仏を殺し」
お釈迦様が大好きだからこそお釈迦様の心を汲んで、このような過激発言ができるのです。
一休さんも「釈迦という いたずら者が 世に出でて 多くの者を 迷わするかな」
雲門禅師「仏は糞かきベラじゃ」
臨済録「仏に逢うては仏を殺し」
お釈迦様が大好きだからこそお釈迦様の心を汲んで、このような過激発言ができるのです。
日本人はクリスマスは盛大にやるのに釈迦の誕生日をやらないのはけしからん、というような声を聞きます。そもそもイエス・キリストはキリスト教の教祖でいいと思いますが、釈尊は法(ダルマ)を発見した人です。ニュートンが万有引力をする前から万有引力はありました。釈尊ももともとあった縁起などの法則を発見しただけなのです。
釈尊は自分を崇拝せよとは言っていない。
自分をよりどころとし、法(ダルマ)を拠り所とせよ
と言っているわけです。
キリスト教徒はイエス・キリストの教えを拠り所とすべきでしょう。しかし仏教は違うのです。
釈尊は自分を崇拝せよとは言っていない。
自分をよりどころとし、法(ダルマ)を拠り所とせよ
と言っているわけです。
キリスト教徒はイエス・キリストの教えを拠り所とすべきでしょう。しかし仏教は違うのです。
雲門が「仏様は糞かきべら」だと言ったり
南泉が猫を斬ったり
一休さんが不動明王に小便かけたり
蜷川新右衛門がお迎えに弓矢を弾いたり
宗教が権力になったり権威になってはいけないということです。
哲学者も宗教家も自分の思想や主張が一番だと思っている人が多いことでしょう。
自分は悟ったのだ、自分は凄い境地に達したのだと思うのは魔境に入ったのであり、禅なら野狐禅です。
逆にわざとらしく謙遜してみせるのも同じことです。
天狗になっても逆さ天狗になっても宗教家や哲学者は毒をまき散らすだけです。
華厳経の「事々無礙法界」はみんなつながっていて、しかもみんな中心の世界ということです。神とか仏とかいらない世界です。
脱宗教こそ究極の宗教の姿でしょう。