行雲流水

仏教をテーマとした記事を掲載しています。

お経読みのお経知らず

2017年05月30日 | 仏の心
○少欲知足と頭ではわかっていても、人間の欲望はとどまるところを知らないんじゃ。

○何事もほどほどにと考えれば楽なんじゃが、そうはいかんものよのう。

○八正道は知っていても、自分の頭で正しくものを考えようとしないのが人間じゃ。

○まちがった情報にだまされてしまうんじゃ。

○般若心経を読んでも、極端な考え方をしてしまうのが人間ちゅうもんじゃ。

○極端な考え方の方がわかりやすいからなんじゃ。

○言うのは簡単じゃが、なかなかできないものよのう。

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自己肯定感

2017年05月26日 | 仏の心
○自己嫌悪に陥る人は、自己肯定感が低いわけではない。

○逆に、自分をちゃんと見つめているから自己嫌悪に陥るのじゃよ。

○自己肯定感が高こうないと、他人を大切にすることはできない。

○自信のないヤツはただ威張りたがるだけじゃろう。

○自己肯定感が低いと、他人のことを思いやる余裕がないんじゃ。

○自己肯定感は、思い上がりじゃないぞぃ。

○自己肯定感が高いから、謙虚にもなれるんじゃ。





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自己を見つめる

2017年05月23日 | 禅の心
○お寺はあっても仏教はないというのが今の時代じゃろう。

○自称仏教徒がお寺には来るが、仏教的な考え方ができる人はどれだけおるのかの。

○自分のことは棚に上げて、人の否をとがめておる人。

○極端な考え方をする人。

○周りに流されて、自分がない人。

○こういう人は反仏教的な人なんじゃ。

○宗教は道徳ではないんじゃよ。

○人の批判より、自分を見つめにゃあいけんよ。

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銀椀の裏に雪を盛る

2017年05月19日 | 禅の心
銀椀の裏に雪を盛る
人は、糞便は汚いと嫌い、香りの良い美味しいご馳走は喜んで食べるのが当たり前の姿です。
しかし、ご馳走も糞便も、原子のいったレベルでみれば、陽子、中性子、電子の組み合わさったものでしかありません。
糞便もご馳走も、その姿「相」が異なるだけなのです。
見方を変えれば、清浄なものも不浄なものも区別がないことになります。
「銀椀の裏に雪を盛る」の句は、とても美しい光景が目に浮かびますが、美しいものを、美しいもので否定しているのです。美しいとか醜いと言った対立的概念を超えたところにこそ、真実があるのです。

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逆天狗

2017年05月16日 | 仏の心
高慢な人間ほど始末のわるいものはないのう。

人間、謙虚に生きにゃあいけん。

慢心をもって人を馬鹿にするのはもっての他じゃ。

じゃがの、逆にあんまり卑屈になりすぎるのもどんなもんかの。

「私はこんなに謙虚な人間でございまする。」

と、謙虚さを自慢するのも高慢な人間なんじゃよね。

謙虚さは自然なものでないといけんね。

何事もほどほどにせんとね。

不自然な謙虚さは、天狗の逆じゃ。

天狗のお面を裏返したら、深い穴になっとるじゃろう。

不自然な謙虚さは高慢の表れなんじゃ。

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