行雲流水

仏教をテーマとした記事を掲載しています。

煩悩 即 菩提

2009年12月29日 | 禅の心
島根県大田市

妙好人 浅原才市は、自らの頭に角を書き加えた自画像を描きました。

そして、このような歌を残しています。

慚愧(ざんき)のごゑん(御縁)にあうときは  ときもき(機)もあさましばかり
これがかんぎのもととなる  なむあみだぶつのなせるなり

自分の、浅ましさ、馬鹿さ加減、愚かさを自覚できることが、大切なご縁なのです。

慚愧(ざんき)とは、自らを恥じることなのですが、

「慚」は自らの罪を自らの心に恥じること

「愧」は自らの罪を他人に告白して恥じることです。

人間、煩悩があればこそ、心の目が開けるのです。

渋柿の 渋そのままの 甘さかな   

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情けはひとのためならず

2009年12月25日 | 禅の心
京都市右京区 大覚寺

情けは人のためならず

自分のためになるということです。

この意味を、若い人に聞くと、

「人に情けをかけてあげるのは、その人の成長のためにならない」と言ったようにとる人が多いです。

道元禅師は、言っています。


愚人おもわくは 利他を先とせば 自ら利 はぶかれぬべしと

しかには あらざるなり

利行は一法なり あまねく自他を利するなり


愚かな人は思うであろう。他人の利益を優先すれば、自分の利益がなくなると。

そうではない。利行というのは、一つの真理であって、自分も他人も利するのである。


道元禅師は、仏の道を歩む者が実践すべき4つの徳目、『四摂法』を重く見ています。

四摂法とは

布施 愛語 利行 同時

の4つです。そのうちの一つが利行です。

登山競技では、4人で60kg以上の荷物を持たなければなりません。

一人15kgずつ均等に持てばいいのですが、体の弱い人がいる場合、誰かが20kg持つこともあります。

体力のある人は、弱い人を助けることによって、結局は自分たちみんなが完歩の栄光を手にすることができるのです。

今の世の中、自分さえ良ければという風潮が強くなっています。

助け合いの精神が大切です。

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平和 環境 人権

2009年12月22日 | 禅の心
禅に限らず、全ての衆生に仏の命が宿っていることを自覚し、

命を大切にし、ものを大切に使うことが大切です。

平和、環境、人権の3つは、命という言葉を中心に互いに関係があります。

戦争は最大の環境破壊であるし、戦争は最大の人権侵害です。

環境が破壊されれば、人間らしく生きていくことができなくなって、人権侵害にもなりますし、

環境が破壊されることが、人間性を失わせることもあると思います。

もう一度、平和、環境、人権を考えてみたいと思います。

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日本人らしさとは

2009年12月18日 | 禅の心
広島市南区


日本人らしさとは

謙虚である

寛容の精神を美徳とする

基本的に争いを好まず、平和を愛する


日本人はもともと、穏やかで優しい性格の民族であったと思います。

これらはみな、神仏の教えのたまものだと思います。

これら、日本人らしさは、無我から生じるのだと思います。

しかし、明治以降、欧米の文化の影響を受けて日本人らしさが急速に失われました。

そして、この十数年の間にさらに日本人らしさが失われていっているような気がします。

他人を気遣い、攻撃しない。少しのことなら水に流す。

今、お寺はあっても教えが広まらない時代です。

仏の教えが浸透すれば、もう一度、穏やかな日本人に戻って行くと思うのですが。

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宗教的価値観

2009年12月15日 | 禅の心
花札の11月、雨です。

小野道風が柳に飛びついたカエルを見て、自分も書道を頑張らなければと思ったというのが、一般的な解釈です。

しかし、私には、カエルが柳に飛びつくのは、単なる遊びにしか見えません。
食糧の虫でもいれば別ですが、ただ面白くてやっているのかなと思います。

学校の先生や、勝ち負けの好きな人には、お叱りを受けるかも知れませんが、180度見方を変えてみるとこうなります。

現代社会では、「頑張る」ことは善であり、最高の価値です。

しかし、宗教はそうではありません。

頑張って、過労死で命を落としては何にもなりません。

お国のために頑張って、鉄砲の弾にあたって、幸せな人もあるかもしれませんが、死んでは何もなりません。

小野道風の逸話も江戸時代くらいに造られ、明治以降は、国民をお国のために頑張らせるための話に仕立てました。

私は、人に「登山頑張っていますね」と言われると、

「いえ、楽しんでいますよ」と応えます。

また、健康のために歩いたり山に登っているのではありません。

私は歩くのが速いのですが、ムキになって追い越そうとしたり、追い越されて悔しがる人もいます。
「私はあなたと競争するつもりはない」と思うのですね。

「頑張れ」「頑張ろう」と言うのは、社会的価値観です。

「楽しんでいこう」というのは彼岸の世界の価値観、つまり宗教的価値観です。

19世紀に哲学者のニーチェは、キリスト教によって、この世は無意味なもだという考え方(ニヒリズム=虚無主義と言います)がはびこっていると考えました。ニーチェは社会的価値観の支持者なのです。つまり、立場の弱い人が、キリスト教の考え方に甘やかされて、また強いものに対してねたむことによって、虚無主義がおこると考えたのでした。
宗教というものは弱い人の味方であるとニーチェは考えているわけです。
私はもちろん、ニーチェの考え方には賛成できません。

私たちは、好むと好まざるにかかわらず、社会の中で生きていかなければなりません。ただ、資本主義社会だろうが、社会主義、共産主義社会だろうが、弱い者にとっては生きにくいものです。
社会の価値観から離れ、あの世(彼岸)の価値観で生きていこうというのが宗教だと思うのです。

少し難しい話になりましたが、「頑張れ、頑張れ」という社会の価値観を離れて、「頑張らなくても、今のあなたでいいよ」というのが宗教でなければならないと思うのです。

救われてこそ宗教なのだと思います。

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