行雲流水

仏教をテーマとした記事を掲載しています。

怒りなき職場はあらじ

2016年07月29日 | 仏の心
怒りなき職場はあらじ  歎きなき生活はあらじ  しづかなる宵(佐々木治綱)

仕事というものは理不尽なことや腹の立つことばかりです。

そのことに怒り狂って過ごせば、余計にストレスになるものです。

まあ、そういうものだと開き直ることも大事です。

その開き直りが「しづかなる宵」という安らぎになります。

あまり怒っても仕方ないのです。

白隠禅師の行雲流水

2016年07月26日 | 禅の心
山下有流水    山下に流水有り

滾々無止時    滾々としてやむとき無し

禅心若如是    禅心もしかくのごとくなれば

見性豈其遅    見性あにそれ遅からんや



白隠禅師の若かりし頃、備前の国から播磨の国へ越える時に、詠んだ詩です。

何事も頑張れば必ず成就するとは限りません。

頑張ってもできないことはあります。

しかし、一つの目標に向かって精進していく姿が尊いのです。

精進している過程こそが仏の姿であり、宇宙いっぱいに生きることなのです。

間断なく水が流れているように、命を燃やしていきたいものです。

おかしな指導者には気をつけろ

2016年07月22日 | 仏の心
インドのヤーシー国の森に500匹の猿が住んでいました。

猿の王様が井戸の中をのぞき込むと、水面に月がうつっていました。

猿の王様は井戸の中に美しい月があるものと思い、拾い上げたくなりました。

「おい、ワシがこの木の枝をもっとるけぇ、尻尾につかまって月をとってきんさいや」

「ワシは王様なんじゃけぇ、ワシの言うとおりにすりゃあ、成功するんじゃ」

というと、500匹の猿たちは次々と尻尾につかまりあって、井戸の底の方へおりていきました。

500匹目の猿がおりていって、水面に手が届きそうになったときに、王様がつかまっていた木の枝が折れて、

500匹の猿は井戸の中に落ちていき、全滅してしまいました。

まちがった考え方の世の指導者、政治家、宗教家などを盲信すると滅んでしまうという寓話でした。

朝比奈宗源老師が現代日本を語る

2016年07月19日 | 禅の心
今度の戦争なんかは、裏面から見ていると初めから負けていた。

改めて結果として負けたんじゃない。敗れるべくして敗れる筋書き通り運んでいたわけだ。

ワシはこの戦争が始まってまもなくから、こいつはだめじゃないかと思っていた。

というのも、あれだけ世界に日本人が誇っている文武というものが、全くいやなものになっていた。

戦争になって日本の主要都市のほとんどが焦土になって、敗戦という未曾有の体験をした。

それから30年間良くなったかと言えばどうだ。

わしはあの無茶苦茶な戦争を始めたときと、ちっとも変わっていないと思う。

今のこのままじゃ日本はどうなるのかね。

杓底一残水 汲流千億人

2016年07月15日 | 禅の心
道元禅師は、仏様にお供えするために谷川から汲んだ水の残った分を谷川に返されました。

わずかな水でも下流に住む人々ののどを潤す水になるかもしれないとの思いからです。

わずかな水が人々ののどを潤すたしになるわけがないと考えてしまいますが、一滴の水に仏の命が宿るとみるのが禅の心なのです。

日本の心とはどんなものにも存在意義があるとみることではないでしょうか。

一滴の水を大切にし、命を大切にする。それが禅の心なのです。