○釈尊が説かれた教えの根本は中道。中道とは正しい道。それだけではない。実際の人間生活に役立つ正しい道、現実に即した、空理空論ではない正道、それが中道。
○ところが、釈尊が亡くなって百年も経つと、仏教は思弁化した。坊さん達が暇になったんだね。これで釈尊の努力がふいになった。釈尊は形而上的、思弁的、観念的で抽象的になったウパニシャッド(古代インドの宗教)哲学を、形而下的、実践的、現実的にするべくつとめられたのにね。またひっくり返してしまった。それを見事に、再び現実化した人は誰か。知る人ぞ知るだね。法然上人です。
○膝をつねって無理に目を覚まして念仏をしろというのではない。眠かったら寝なさい。目覚めたら念仏せよ。すばらしいね。ここに無碍(こだわりのなさ)がある。自然法爾です。中道とは、これをいう。
○仏教は虚無的だ、ニヒルだという人がいる。とんでもない錯覚であり、誤解です。釈尊は脱世間的、非科学的な教えを何一つ説かない。
○釈尊は死人のためにお経なんか一度も読まなかったし、死ぬことがすばらしいなどと口にしなかった。生きることが第一。そして、現実の大地にしっかと足を踏み下ろして(二足尊)、極端におちいることなく、保守的にならず、たえず前進的に問題に取り組むことを推し進めたのです。
○仏教は人間中心主義
○仏教は人間中心の宗教であり、二足尊の宗教である。原始宗教以来の神話の宗教に対し、人間の宗教としてうまれ生き抜いてきた。火の神でも水の神でも、土の宗教でもない、生命尊重の人間宗教です。ちかごろ、日本人は生き甲斐といっているが、生き甲斐とは、「ありがとう」ということだ。ありがとうとは、「あることかたし(在ること難し)」です。法句経182番に「人の生をうくるはかたく」とある。いのちとは「あることかたし」、すなわちサンキューではない。めったにないことだということだ。これほどまでに生きていることを喜び感謝する心を持てばそれが生き甲斐になる。