行雲流水

仏教をテーマとした記事を掲載しています。

葉上照澄師が世間を斬る

2011年03月29日 | 禅の心
○一番いかんのは、大学教授とジャーナリズム。青年をアホにかりたてとる。もっと大人にならにゃいかんね。世の中の移り変わりの現象面のみとらえて、それを新しい社会像であるかのようにみせつけ、いかにも大衆をキャッチしとるようにいうが、ちっとも人間がみえとらん。それを思うと、私はじいっとしとれん気持ちに駆り立てられるわ。山にいると人間がようみえてくるだけに、苛立ちも強くなる。

葉上照澄師・・・・1903-1989

比叡山千日回峰行達成者

友松圓諦師 が中道を語る

2011年03月25日 | 禅の心
○釈尊が説かれた教えの根本は中道。中道とは正しい道。それだけではない。実際の人間生活に役立つ正しい道、現実に即した、空理空論ではない正道、それが中道。
○ところが、釈尊が亡くなって百年も経つと、仏教は思弁化した。坊さん達が暇になったんだね。これで釈尊の努力がふいになった。釈尊は形而上的、思弁的、観念的で抽象的になったウパニシャッド(古代インドの宗教)哲学を、形而下的、実践的、現実的にするべくつとめられたのにね。またひっくり返してしまった。それを見事に、再び現実化した人は誰か。知る人ぞ知るだね。法然上人です。
○膝をつねって無理に目を覚まして念仏をしろというのではない。眠かったら寝なさい。目覚めたら念仏せよ。すばらしいね。ここに無碍(こだわりのなさ)がある。自然法爾です。中道とは、これをいう。
○仏教は虚無的だ、ニヒルだという人がいる。とんでもない錯覚であり、誤解です。釈尊は脱世間的、非科学的な教えを何一つ説かない。
○釈尊は死人のためにお経なんか一度も読まなかったし、死ぬことがすばらしいなどと口にしなかった。生きることが第一。そして、現実の大地にしっかと足を踏み下ろして(二足尊)、極端におちいることなく、保守的にならず、たえず前進的に問題に取り組むことを推し進めたのです。
○仏教は人間中心主義
○仏教は人間中心の宗教であり、二足尊の宗教である。原始宗教以来の神話の宗教に対し、人間の宗教としてうまれ生き抜いてきた。火の神でも水の神でも、土の宗教でもない、生命尊重の人間宗教です。ちかごろ、日本人は生き甲斐といっているが、生き甲斐とは、「ありがとう」ということだ。ありがとうとは、「あることかたし(在ること難し)」です。法句経182番に「人の生をうくるはかたく」とある。いのちとは「あることかたし」、すなわちサンキューではない。めったにないことだということだ。これほどまでに生きていることを喜び感謝する心を持てばそれが生き甲斐になる。

柴山全慶老師の『花語らず』

2011年03月22日 | 禅の心
花は黙って咲き 黙って散っていく 



そうしてふたたび枝に帰らない


けれども その一時一処に


この世のすべてを託している


一輪の花の声であり 一枝の花の真である


永遠にほろびぬ生命のよろこびが


悔いなくそこに輝いている

山本秀順師が昆虫採集について語る

2011年03月18日 | 禅の心
「私もしばらくは黙って見過ごしていた。昆虫を欲しがる童心を傷つけたくないと思ったからです。ところが、教師達は、ただ昆虫を捕らえて殺し、標本にすることのみしか教えていないことを知った。知識欲の満足のためにのみ虫を傷つけ殺す。子供らは、何一つ自然を鑑賞することもなく、採集の数の多さのみ競い合っている。私は先生方に注意した。そんなものは人間教育ではない。蝶やトンボの生態を観察するなら、なぜ生き物としての昆虫を見せようとしないのか。薬に沈め、針を刺すことで、生態のいのちは分かるのか。昆虫にも一つ一つの生命がある。その生命のねうちは人間の生命の尊さと少しも変わりないはずだ。
平気で虫を殺せる少年は、やがて生き物すべてを殺傷するようになる。相手の痛さが分かる子ども、虫のつらさを知る少年が、他人の痛さを自覚するようになるのです。私は、研究のためなら昆虫ぐらい殺しても何でもないという心を、少年に植え付けるのは罪悪だと思います。それは自己本位の人間を育てるだけのことです。早く捕まえた方がいい、とったら自分のものだ、という昆虫採集の競争心は、幼い子に所有欲と自分だけというエゴイズムを培うだけだ。
自然を傷つけ、小動物を殺すのも、水俣病もすべて根は同じです。昆虫採集を喜ぶ心と水銀の垂れ流しに痛みを感じない心とどこがちがうでしょうか。同じことです。」


山本秀順師=高尾山薬王院院主・1996年遷化(84歳)

内山興正師が人生の意味を語る

2011年03月15日 | 禅の心
○つまり人生とは何かということについて、昔から先人達も精一杯の努力をし、それなりの業績を残してきているはずです。そういう業績を学ぶことなしに、人生とは何かと幼稚な自分のアタマだけで考えても、どうせ本当の道が歩めるはずはありません。本当に人生とは何か少しでも深い処で問い続けたいと思うのなら、そういう先人達の業績を充分学びとることが出来るほどに、こちらのアタマも高められていなければならないわけです。東洋の先哲、あるいは西洋の先哲の言葉一つを学びとるためには、その背景にある歴史や文化、またそのための語学力や論理的思考力などを身につけていなければならず、結局今の学校の勉強ぐらいは常識として学んでおくべきです。

○人生とは何かと問うような若人達は、それこそ受験のため、就職のため、エリートコースを進むためというように堕落してしまっている今の学校教育に対し、全く反感をもたずにはいられない気持はよく分かります。本来の勉強は今も言うように、世の中の各方面に向かう人それぞれの定石を学ぶための基礎知識としての勉強でありました。ところが今の学校教育はその点全く堕落しているわけですが、それが堕落しているからといって自分も堕落しなければならぬわけてはなし、また、だから自分は学校で勉強する気になれないというのでも、あなたのように人生は何かと間う若人の取る道ではありません。

○そういう今の学校の趨勢とは関わりなく、ただ自分自身の人生とは何かと間う定石を学ぶための基礎知識の勉強として、志を立てて学んでいかれることをお勧めします。そして学校を出られたら、さらに人生とは何かをそれこそ本格的に学ばれつつ、そしてある時、この人についてこそ学ぼうという人に出会ったら、その人を師としてより深く学びつつ、何処までも自己の人生を深めていかれることを期待しています。

○これに反し、「自分は今人生を悩んでいるために、今せねばならない勉強も仕事も手につかないのだ。だからオレは勉強も仕事もやりはしないのだ」と、まるで「人生とは何か」という悩みを楯として、自分の怠惰を弁護している人がいます。あるいはただ傲慢たる趣味として「自分は人生を悩んでいる」と耽溺しつつ、人生に対して、なあに愚図っている のでしかない人達も、掃いて捨てるほど沢山います。
○こんな人達は初めから「人生とは何か」など問う資格はない人達です。以上の答えは、もちろんこんな人達への答えではありません。