インドにクリシャー・ガウタミーという女性がいました。ガウタミーには、やっと歩けるようになったばかりの男の子がいたのですが、ある晩、熱を出して突然死んでしまいました。ガウタミーは大いに悲しんで、男の子の亡骸を抱いて街中さまよい歩きました。「誰か、この子を生き返らせて下さいませんか。」街ゆく人々は気味悪がって誰もガウタミーの相手をしようとしません。
ガウタミーは何日間かさまよい歩いて、釈尊に出会いました。ガウタミーは釈尊に男の子を生き返らせてくれるよう頼みました。釈尊は言いました。「死者の全く出ていない家庭から芥子の実をもろうてきんさい。そうすりゃあ子供を生き返らせてあげるけえ。」と言いました。ガウタミーは死者の出ていない家庭を探しました。死者の出ていない家庭はありませんでした。ガウタミーは釈尊のところへ行きました。「ありがとうございました。この子はあの世に行っても私の子でございます。懇ろに弔ってやります。」といって、我が子を火葬して弔ってやりました。
この話は、死んだ者は生き返らないのだから、仕方ないからあきらめなさいということではありません。最愛の子供が亡くなって悲しくないわけではありません。悲しいのがまともな人間なのです。大いに悲しんで、生きていても死んでも我が子として愛してあげるというのが仏の心なのだという話なのです。
ガウタミーは何日間かさまよい歩いて、釈尊に出会いました。ガウタミーは釈尊に男の子を生き返らせてくれるよう頼みました。釈尊は言いました。「死者の全く出ていない家庭から芥子の実をもろうてきんさい。そうすりゃあ子供を生き返らせてあげるけえ。」と言いました。ガウタミーは死者の出ていない家庭を探しました。死者の出ていない家庭はありませんでした。ガウタミーは釈尊のところへ行きました。「ありがとうございました。この子はあの世に行っても私の子でございます。懇ろに弔ってやります。」といって、我が子を火葬して弔ってやりました。
この話は、死んだ者は生き返らないのだから、仕方ないからあきらめなさいということではありません。最愛の子供が亡くなって悲しくないわけではありません。悲しいのがまともな人間なのです。大いに悲しんで、生きていても死んでも我が子として愛してあげるというのが仏の心なのだという話なのです。