行雲流水

仏教をテーマとした記事を掲載しています。

悲しい時には悲しみに徹する

2013年03月29日 | 禅の心
インドにクリシャー・ガウタミーという女性がいました。ガウタミーには、やっと歩けるようになったばかりの男の子がいたのですが、ある晩、熱を出して突然死んでしまいました。ガウタミーは大いに悲しんで、男の子の亡骸を抱いて街中さまよい歩きました。「誰か、この子を生き返らせて下さいませんか。」街ゆく人々は気味悪がって誰もガウタミーの相手をしようとしません。

ガウタミーは何日間かさまよい歩いて、釈尊に出会いました。ガウタミーは釈尊に男の子を生き返らせてくれるよう頼みました。釈尊は言いました。「死者の全く出ていない家庭から芥子の実をもろうてきんさい。そうすりゃあ子供を生き返らせてあげるけえ。」と言いました。ガウタミーは死者の出ていない家庭を探しました。死者の出ていない家庭はありませんでした。ガウタミーは釈尊のところへ行きました。「ありがとうございました。この子はあの世に行っても私の子でございます。懇ろに弔ってやります。」といって、我が子を火葬して弔ってやりました。

この話は、死んだ者は生き返らないのだから、仕方ないからあきらめなさいということではありません。最愛の子供が亡くなって悲しくないわけではありません。悲しいのがまともな人間なのです。大いに悲しんで、生きていても死んでも我が子として愛してあげるというのが仏の心なのだという話なのです。

言葉は心の脈拍だ

2013年03月26日 | 禅の心
ことばは、心の脈拍だ。その人の発言があわただしい時は本人の心が荒れている。ことば遣いが優しいときは当人の心が穏やかなのがわかる。(亀井勝一郎)

言葉は生きています。優しいことばは周りの人を和やかにしてくれますし、乱暴な言葉は気分を暗くします。言葉はその人の心の状態のバロメーターです。心が荒れているときには言葉が荒々しくなり、穏やかなときには言葉も優しくなります。逆に言えば優しいことばを使うよう心がけていれば、自ずと気持ちも穏やかになっていくものです。つねに穏やかに優しい言葉を発していきたいものです。

烏鷺滝が禅を語る

2013年03月22日 | 親鸞・歎異抄・浄土真宗
○禅は他人を批判することではない。

○自分がどう生きるかということじゃ。

○自分とは何かということじゃ。

○人間はちょっとしたことで、自分は偉くなったと錯覚したり、逆に必要以上にダメなやつだと思ってしまうものじゃ。

○そうではなく、自分はどんな人間なのかをきちんとつかむこと。それが禅なのである。

○のぼせをさまして謙虚に穏やかに生きること。それが禅の目的の一つなんじゃ。

○短い人生をどう生きるかということを考えるのが禅なんじゃ。

澄みません

2013年03月19日 | 親鸞・歎異抄・浄土真宗
人間は生きること自体が罪である

金子大栄先生の言葉です。人間は誰かに迷惑をかけなければ生きていけない存在なのです。自分は絶対に人様に迷惑をかけるようなことをしていないと思っていても迷惑をかけているのです。
だからと言って卑屈になることもありませんし、おごり高ぶることもありません。迷惑をかけなければ生きていくことができないことを自覚することが大切なのです。
「すみません」とは美しい日本語だと思います。「私は迷惑ばかりかけている存在で、心が澄みません」という意味なのです。心は澄みませんが、それを自覚していき、迷惑をかけるのを最小限にしたいという気持ちが含まれているのです。
繰り返しになりますが、迷惑をかけている存在であることを自覚して生きることが大切なのです。

信心と信仰

2013年03月15日 | 親鸞・歎異抄・浄土真宗
信心と信仰はとてもよく似た言葉ですが、違います。キリスト教や神道では、自分より高いところにある存在を仰いで信じるので、「信仰」というのです。
しかし、仏教は、自分のうちにある仏心を信じるので、「信心」という方が妥当なのです。
親鸞聖人は『浄土和讃』の中で、


 信心よろこぶそのひとを、如来とひとしとときたまふ。
 大信心は仏性なり、仏性すなはち如来なり (『浄土和讃』)


と言っています。仏法を聞いて信心を喜ぶ人は、仏になる縁を得たのだから、阿弥陀如来そのものなのだ。ということです。
信じて疑わない堅い信心は、仏性であり、仏性はそのまま阿弥陀如来なのです。
仏教とは、私たちの内面から人間性を豊かにしていく営みなのです。