行雲流水

仏教をテーマとした記事を掲載しています。

葬式仏教も必要

2012年05月29日 | 禅の心
私は、仏教について生きている人が救われるものでなければならないと考えています。また、釈尊も葬儀のことは述べておられません。しかし、葬式仏教は必要なものだと思います。「坊さんは葬儀屋」などといって、葬式仏教は何かにつけて批判されていますが、お寺が葬儀ばかりに重きを置くのがよくないのであって、葬儀もお寺の重要な側面だと思うのです。
 先祖供養とか死者の供養とかというのは、仏教の本来の役割というよりは、日本の神道や、中国の儒教、道教の考え方に基づくものです。
 日本では、亡くなったばかりの人の魂は、「荒ぶる魂として」存在し、49日まで法要していくと、やがて「穏やかな魂」に変わっていくと考えました。「荒ぶる魂」は、地元を離れて不安定な精神状態になっている若者のようなものですが、だんだん馴れて、穏やかになっていくのです。亡くなった人の魂は、33年経つと、先祖の霊として、一段格が上がるのです。仏壇に安置される位牌は儒教の「霊の依り代」が元になっています。
 亡くなった人との連続性を考え、自分が今ここに存在することは、亡くなった人がいたからだと考えて生活していくことは、大切だと思います。亡くなった人は「死者として生きている」のです。
 日本のお寺は、純粋な仏教寺院ではなく、神道、儒教、道教などが合わさったものだと考えられます。葬式仏教は日本のお寺の大事な役割だと考えます。

お任せする

2012年05月25日 | 禅の心
占いを信じる、信じないはそれぞれの人の考え方であり、自由だと思います。
仏教は、経験に基づかないものは、扱わない傾向にありますが、だからといって、非合理的なものを切り捨てて行くのはどうかと私は考えます。
 古代の政治家は、何か判断に困った場合に占いに託しました。
「どちらでも良いこと。どちらかわからないこと」は、最終的な判断を占いによって神様に決めていただいたのです。「最後にはお任せする」態度こそ宗教的態度なのです。やることをやったら、あとはお任せするのです。「南無阿弥陀仏」と唱えてあとはお任せする。「妙法蓮華経」と唱えて、あとはお任せする。神仏の前に、すべて体ごと投げ出してお任せすることも必要だと思うのです。
 「他力本願」というと、現代人の中には、厳しい世の中にあって、甘えたことを言うなという人もいますが、精一杯やって、最後にお任せするということは決して甘えではないと思います。私は「他力本願」も「自力本願」も同じことだと思っています。



願心なきは菩薩の魔事なり

2012年05月22日 | 禅の心
人間、この世に生まれてきたからには、小さなことで良いから、願いが必要です。
犯罪や、戦争のない平和な世の中にでありたい。
みんな幸せに生活できる世の中でありたい。
できるだけ、周りに迷惑をかけないで生活したい。
宇宙の真理を知りたい。
思いやりのある、優しい人間になりたい。
など、何でも良いと思います。
神社やお寺にお参りして、お願いことをするものではないと言いますが、そんなことはありません。自分の欲を満たしてくれる願い事はよくないかもしれませんが、自分の人生の中の願いを神仏に表明することが大切なのです。

澤木興道老師も「願いのない人生は、ハンドルのないオートバイに乗っているようなものだ」と言われています。
人間は、願いに生まれ、願いに生きることに意義があります。
願いに生まれ、願いに生きることが「願生る(がんばる)」ことなのです。


がんばらない

2012年05月18日 | 禅の心
がんばることは、悪いことだとは思いません。

しかし、がんばることのできない人に「がんばれ」と言うことほど、酷なことはありません。

仏教の考え方の根本に、「諸法実相」があります。

つまり、自然はありのままの姿を映しているということです。

そうです。私たちもありのままに生きるしかないのです。

病気になったら、病気に。

苦しいときには、苦しみ。

死ぬ時がくれば死ぬ。

人間の苦しみは、自分の力ではどうにもならないことをどうにかしようと思うところから始まります。

自分の力でどうにかしようとしているものが自我に執着する我執です。

自我に執着して「我を張る」のが「頑張る=がんばる」です。

「頑張る」のではなく、願いに生きる「願生る(がんばる)」方が仏の教えに近いと思います。

極悪人の行く末

2012年05月15日 | 禅の心
提婆達多は、釈尊の従兄弟でしたが、釈尊に反感を持ち、釈尊を殺害しようとしました。
提婆達多の悪行を三逆罪と呼んでいます。
まず、釈尊の教団を解体しようとしたこと。
次に、崖の上から大岩を落として、釈尊の足の指に大けがをさせたこと。
さらに、釈尊の殺害を、蓮華色比丘尼にとがめられ、彼女を鉄の棒で殴り殺してしまったこと。
です。提婆達多は、凶悪な犯罪人として語り継がれてきたわけです。
提婆達多は、地獄の中でも最も最下層にある、無間地獄に落ちることになります。
ただ、法華経では、極悪人の提婆達多も成仏することになっています。

現代では、誰も地獄の存在を信じなくなりました。悪いことをすれば地獄に落ちるというのは、長い間、日本人の倫理観を支えてきたのでした。
しかし、地獄はあります。悪いことをすれば、この世で苦しみます。地獄は自分の心の中にあるのです。