行雲流水

仏教をテーマとした記事を掲載しています。

グループぼけ

2012年03月30日 | 禅の心
「チョコレートをよく食べる人はやせている人が多いそうな。チョコレートをたくさん食べてみよう。」と、根拠はわからないけど、自分の頭では考えずに、報じられていることにとにかくとびつく人。
 「あの店はみんなが行列をつくっているから、いい店なのだろう」と、他人が良いというものを評価してしまう人。
 「あの政治家は、頼もしいな」と、政策とか人柄ではなく、イメージで選挙に行く人。
 自分の頭で物事を評価するのではなく、他人や世間一般の価値判断を自分の価値判断にしてしまうのはとても危険なことなのです。澤木興道老師は、「グループぼけ」ということを盛んに言われました。「みんなが良いというものはいいものだ」と、自分に合っていないものも良しとしてしまう。戦前、国家神道にみんなが洗脳されてしまったのは、グループぼけのさいたるものなのです。禅では、「自己を究めることに重きを置きます」世間とか他人ではなく、自分の頭で物事を考えていくことが大事なのです。



四門出遊

2012年03月27日 | 禅の心
『四門出遊』

 若き頃のお釈迦様は、思索にふけって、何となく危うい感じがしました。それを心配そうに見ていたお父さんが、「東の門から出て、遊びに行ってきんさい」と言いました。お釈迦様は、お父さんに言われるように東の門から出て行きました。すると、一人の老人が歩いていました。お釈迦様は、おそばのひとに「あれは何かいのう?」と聞きました。おそばの人は「あれは、老人というものでごさいまする。みんな、あがあな姿になるのでございます。」と言いました。お釈迦様は愕然としました。次の日に、元気のないお釈迦様を見て、お父さんは「今度は南の門から出てみんさいや。気晴らしになるけえ。」と言ったので、お釈迦様は出てみました。すると、病気になって、よろよろ歩いている人に出会いました。お釈迦様は、おそばの人に「あれも老人かいのう?」と聞きました。おそばの人は「あれは、病人というものでございまする」と答えました。また次の日にはお釈迦様は西の門から出てみました。すると死者の葬列に出合いました。おそばの人に同じように聞くと、「あれは死者というものでございまする。人間は誰でも最期にはこのような姿になるのでございます。」と言いました。最後に、北の門から出てみると、立派な沙門(修行者)に出合いました。お釈迦様は「わしは、あがに、立派な出家者になりたいぞ」と言いました。
さて、この四門出遊のお話が語っているのは、人間には「老病死」がの苦しみがやってくるぞ。しかしこれが現実なのだ。「老病死」を迎える人間はどう生きたらいいのか。ということなのです。キリスト教文化圏では、老いや病、死といかに戦うのかと言うことを考えます。しかし、仏教は老病死をまっすぐに見つめることを勧めています。そして、どのように生きたらいいかを重要視しているのです。人間は、老い、病み、死ぬ存在だからこそ、充実した人生を送らなければならないのです。



『どこへも行かぬ ここにおる』

2012年03月23日 | 禅の心
『どこへも行かぬ ここにおる』

今死んだ どこへも行かぬ ここにおる 
    たずねはするなよ ものはいはぬぞ

洒脱さに富んだ一休さんの歌です。

 これと似たものに『千の風になって』という歌がありますが、この歌も、亡くなった人はお墓にはいないと言っています。千の風になっては、風になって空を吹き渡っているのですが、一休さんは「ここにおる」と言っているのです。お墓でもなく、仏壇の中でもなく、天国でもない。大空を飛んでいるのでもない。「ここにおる」のです。 禅では「今、ここ」を重要視します。亡くなった方は、自分の意識の中で生きています。しかし、それは決して霊魂とか幽霊とかというものではありません。亡くなった方との対話が、死に別れたあとで始まるのです。
はるか昔の思い出ですが、当時小学5年生だった私は、少し行儀の悪いことをして、祖母にたいそう叱られました。普段は優しかった祖母でしたが、その日ばかりは違いました。さすがにこたえましたね。
それから一週間後くらいだったでしょうか、その祖母が脳溢血で倒れたという知らせを聞きました。あっけない祖母の最期でした。かわいい孫だからこそ、渾身こめて叱ってくれた。そして、去ってしまった。このことは、私にとってとても大きな意味のあるできごとでした。祖母との対話はそのときから始まったのです。祖母は「ここにおる」のです。

自然をたたえ 生命をいつくしむ日

2012年03月20日 | 禅の心
「自然をたたえ 生物をいつくしむ日」
 今日、3月20日は春分の日です。春分の日は、近年ですと通常は3月21日で、閏年には3月20日になることが多かったのですが、これからは3月20日が通常で、閏年には3月19日になる場合が出てまいります。春分の日は「自然をたたえ 生命をいつくしむ」日として国民の祝日に関する法律にはうたわれています。
今年の場合、3月20日を中心として、7日間が「春のお彼岸」になります。お彼岸は、完成した人間に近づくための努力週間と言ってもいいでしょう。今、完成した人間と申し上げましたが、あくまでも、完成した人間に近づくのであって、完成した人間にはなれません。完成した人格をもっているのは仏様だけなのです。そして、完成した人間に近づくために努力をしているのが菩薩様なのです。「永遠なるものを求めて永遠に努力する人を菩薩という」 とは、高田好胤先生の言葉です。彼岸は悟りの世界です。その悟りの世界である彼岸に渉るために努力しているのが菩薩様です。彼岸は対岸の世界なので、彼岸に渉ると、今度はもといた岸が彼岸になります。やはり元板世界が恋しくなるのです。悟りを開いても、再び元の世界に戻ってくる。悟りを開いたからと言って、悟りの世界にとどまっているのではなく、再び娑婆世界に戻って、衆生を救ってあげるのが菩薩様なのです。山に登っても、山から下りてこなければ死んでしまいます。登山は、山に登って、下山して家に帰るまでが登山なのです。国内旅行でも、海外旅行でも、最終目的地は我が家です。帰る家があるから登山も楽しいし、旅行も楽しいのです。帰る家がなかったら、登山も旅行も楽しくなんかありません。大乗仏教は、仏様になるのではなく菩薩様になる宗教なのです。
 彼岸に渉るためには、何か目印になるもの、努力目標になるものが必要です。彼岸とは、サンスクリュット語で「パーラミータ」と言います。中国では「波羅蜜多」と訳しました。そしてその努力目標を六波羅蜜と言って、6つの実践項目として挙げられています。
布施波羅蜜
持戒波羅蜜
忍辱波羅蜜
精進波羅蜜
禅定波羅蜜
智慧波羅蜜
の6つです。
菩薩行は、目立たぬようにさりげなく行います。人間性を高めていこうと努力している人はみな菩薩様なのです。お彼岸は菩薩様週間なのです。


仏様からの預かりもの

2012年03月16日 | 禅の心
「仏様からの預かりもの」

 仏教に限らず、宗教の考え方の一つとして、「無所有」とか「無所得」ということがあります。このように言いますと、社会主義や、共産主義のようですが、決してそうではありません。社会主義や、共産主義なら、財産は国家のもの、公のものなのですが、仏教では、自分のものはすべて仏様からの預かりものであると考えます。財産に限らず、自分の子どもも仏様からの預かりもの、自分の体さえも、仏様からの預かりものなのです。生きたくても死に、死にたくても生きているのは、自分では自分の体をどうすることもできないということなのです。自分の体でさえ、自分に思うようにならないのです。
獄窓の歌人と言われた死刑囚、島秋人の歌に、

身にもてるもの みな神に還すもの 生命(いのち)ひとつは愛(かな)しかれども

というのがあります。
 誰でも最後には、自分の体さえも、神仏にお返ししなければならないのです。
わが子であれ、他人の子であれ、仏様からの預かりものだと思えば、接し方も変わってくるものです。