行雲流水

仏教をテーマとした記事を掲載しています。

生死を見つめる

2012年04月27日 | 禅の心
年をとってくると、時間の流れがおそろしく速く感じられるものです。
若い頃にはあまり感じなかったのですが、人の一生なんて短いものだと思うのです。
この時期にはセミの死骸をよくみかけます。短い命を精一杯生きて死んで行くセミ。セミはセミとして精一杯生きていくことで永遠の生命を生きているのです。草木や花にしてもそうです。
私たちもこの今日というかけがえのない一日を自分として精一杯生きていき、悔いのない一生を送っていきたいものです。

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人権・平和・環境

2012年04月24日 | 禅の心
「人権・平和・環境」の3つは、「生命の尊重」という点において互いに関連があります。
そもそも釈尊の出家の動機の一つに「人権・平和」ということがあったのではないでしょうか。
バラモン教の階級制度による厳しい差別。近隣諸国の争い。これらのことは釈尊の目には哀しいものに写ったことでしょう。

道元禅師の『四摂法』の一つに「愛語」があります。
他人を傷つけるのは刃物だけではなく、言葉によってもなされてしまいます。
言葉は時として武器になってしまうことを考えておかなければなりません。
現代、毒を持った言葉であふれかえっているのは悲しいことです。

「愛語」を出発点として、差別のない社会と世界の平和を実現していかなければならないと思います。
そして、生命の存続にかかわる環境問題も。

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すべてのものが自分の姿

2012年04月20日 | 禅の心
花園大学学長をやっておられた山田無文老師は、年に一度は、岡山県の長島愛生園を訪問されていました。愛生園はハンセン氏病の患者さんが、強制的に連れて来られたところです。ハンセン氏病は神経の病気で、手足の指が壊死し、感覚がなくなっていく感染症です。
しかし、ハンセン氏病は感染力は弱く、完全に治る病気なのです。
当時の権力者と、人々は大きな過ちを犯しました。ハンセン氏病の患者さんを人間扱いしないで、差別し続けてきたのです。強制的に去勢され、家族と引き離され、一生隔離の生活をさせられたのです。本名も名乗れません。家族に迷惑がかかるからです。

自分が差別される側の立場ならどうなのかという視点で考えないと、差別はなくなりません。自分もどんな病気になるかわかりません。自分ではなくても、子供や孫が差別される立場になることもあるかもしれません。
全てのものは自分の姿であります。差別に対して無関心でいることは、差別することと同じことなのです。
コメント (1)
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忍をもって鎧となす

2012年04月17日 | 禅の心
釈尊を慕って、他の宗教からもたくさんの人が弟子になりました。
ある時、バラモン教の司祭の弟子が釈尊のところへ行ってしまいました。バラモン教の司祭は大変激怒し、釈尊をまくし立てます。怒りをぶつけても釈尊は黙っているので、司祭は、
「あんた、これだけ言われて反論ができないのかい。たいしたことのないやつだ。お前さんのまけだね。さあ、弟子を返せ」
釈尊はバラモンに静かにこう言われました。
「もし貴方様の家においでになったお客様が、貴方様のおもてなしをうけなかったら、どうなさいますか」
バラモンは
「そりゃあ、ワシが食わなしょうがないわな」
釈尊は
「私は、貴方様の悪口というご馳走を食べませんでした。このご馳走は貴方様が食べなければならないことになりますね」

怒っている人に怒りを返さない、悪口を言う人に悪口を返さないというのが真の勝利者なのです。

世の中は怒りや悪口で満ちています。それを怒りで返さないことが大切なのです

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都会にも農村にもとらわれない

2012年04月13日 | 禅の心
寂を喜み(このみ)喧を厭う者は 往々にして人を避け 以て静を求む。
意、人無きに在れば 便ち我相を成す。
心、静に着せば 便ち是れ 同根なるを知らず。
如何ぞ、人我一視、動静 両つ(ふたつ)ながら 忘るるの境界に到り得んや。
(菜根譚より)

菜根譚の著者、洪自誠は、静寂を求め、人を避けて暮らすのは、わがままだというのです。
何だかんだと言っても、人間は社会的な動物です。一人では生きていくことはできません。
現代、街に出れば、自動車の騒音をはじめとして、店に鳴り響くBGMや有線放送の音を騒がしく思う人は多いと思います。あるいは、年末年始に、親戚の子供たちが集まってきて騒ぐのをうっとうしく思うこともありましょう。
しかし、人間社会に生きている限りは、それらはある程度仕方のないことだと割り切ることも必要です。

静かさに執着し、とらわれていくのも大きな迷いなのです。

鎌倉時代の宗峰妙超(大灯国師)は、騒がしい京都の四条大橋の下で修行しました。
その時のうたが、

坐禅せば、四条五条の橋の上
 行き来の人をそのままに見て

です。山にこもることばかりが修行ではないということです。

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