行雲流水

仏教をテーマとした記事を掲載しています。

禅語(29)・・・道吾漸源弔意

2015年06月30日 | 禅の心
碧巌録の公案です。

道吾和尚が弟子の漸源と一緒に、知人のお悔やみに行きました。

漸源は、故人の棺をたたきながら、道吾に聞きました。

「この棺の中の人は、生きとるんじゃろうか。死んどるんじゃろうか。」

道吾和尚は、

「生きているともいえん。死んでいるともいえん。」

漸源

「なして、教えて下さらんのんですか」

道吾

「言わんぞ、言わんぞ」

漸源

「言うて下さらんのなら、殴りますぞ」

道吾

「言わん、言わん」

といって、漸源は道吾を殴ってしまいました。

道吾和尚が亡くなったあと、漸源は石霜禅師にこの話をしました。

しかし、石霜禅師の答えも同じでした。

常識的に考えれば、お悔やみに来ているのですから、棺の中の人は死んでいると、道吾も漸源も思っているはずです。

この、「生きているか、死んでいるか」というのを、

「死後の世界はあるか、ないか」

「幽霊はいるか、いないか」ということに置き換えてみるとわかりやすいと思います。

死後の世界は、あるのかないのかわからない。あるとも、ないとも言える。

幽霊はいるのかいないのかわからない。

答えを出すことのできないものに、何か一つの答えを出そうとすることは、愚かです。

現代人は、西洋の影響で、二元論で考えようとします。

そして、答えを求めます。

しかし、答えのない問題もあることは知るべきなのです。

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禅語(28)・・・喫茶去(きっさこ)

2015年06月26日 | 禅の心
唐の時代の趙州禅師の言葉です。

誰が来ても「お茶をのんでいきんさい」

と言いました。

「お茶をどうぞ」とは、ごく当たり前の言葉ですが、

いつでも、誰にでも同じようになかなか言えないものです。

私たちは、目の前にいる人が、偉い人なのか、お金持ちなのかというようなことで判断してしまいます。

禅の世界では差別ということを戒めます。

どんな人に対しても態度を変えることなく

「お茶をどうぞ、ゆっくりのみんさい」

と言えることが尊いのです。

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禅語(27)・・・挨拶

2015年06月23日 | 禅の心
挨拶の本来の意味は禅問答のことです。

全力で魂をぶつけあう禅問答です。

ですから、ふだんしている挨拶も、魂のぶつかりあいなのです。

一期一会の相手との魂のぶつかりあいなのです。

相手を尊重し、自分も尊重する魂のぶつかりあいなのです。

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禅語(26)・・・閑古錐

2015年06月19日 | 禅の心
よく使って、先が丸くなってしまった錐(きり)

もう役に立たないもののようですが、捨てるにはもったいない。

人間も、年老いたら、それなりの価値が出てくるものです。

若い頃にはわからなかったこともわかるようになってきます。

それぞれの年代に合ったように生きて行くのがいいのです。

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禅語(25)・・・廓然無聖

2015年06月16日 | 禅の心
達磨大師は梁の武帝に「無功徳」を説いたあと、武帝は「お前さんの考える真理とは何じゃ?」

と聞きました。

達磨大師は「廓然無聖」と答えました。

人間には偉い人、偉くない人の区別はない。

聖と俗の区別もない。

権力者も民衆も仏の命をいただいている尊い存在ではないのか。

社長も労働者もお互いを尊敬しあわなければならないのではなかろうか。

達磨大師は威張らず、謙虚に生きなければならないのだと説いたのでした。



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