行雲流水

仏教をテーマとした記事を掲載しています。

規矩行い尽くさば 人必ずこれを繁とせん

2017年01月31日 | 禅の心
ニュースを見ていると、子供に挨拶をしただけで不審者扱いされる人がいました。あまりにも極端な話だと思うのですが、何か寂しいような気もします。
また近年、サービスや商品について過度のクレームをつける人が多くなったといい、教育現場ではモンスターペアレントなる造語もできるほどになりました。
他人のあら探しをしたり、小さな事に怒り、文句を言わなければ気のすまない人が増えたのは何とも暮らしにくい世の中になったものだと思います。
人間は神様ではないので不完全です。失敗もしますし過ちもおかします。確かにやってはならない失敗や過ちがあるのは確かです。しかし小さな事を大きく取り上げ、激しく怒ったり叩いたりするのはよくないと思います。
訴訟社会のアメリカの影響もあってか、ちょっとしたことでもニュースになったり訴えられたりするようになりました。日本人の持っていた寛容の精神はどこかへ行ってしまったような気がします。
規矩行い尽くさば 人必ずこれを繁とせん
きまりにとらわれ過ぎると人はうるさがって、離れていくものだという、五祖法演の四戒の一つです。
きまりは大事だし、道徳も必要だとは思いますが、あまりそれらにとらわれ過ぎると人間関係がギクシャクし、煩わしい世の中になっていきます。何ごともほどほどが良いと思います。

心の杖ことば(松原泰道師の言葉から)

2017年01月27日 | 禅の心
 そして心の床の間には、「心の杖言葉」をかけます。

 杖とはなんでしょう。

 人は足をいためたり、疲れたりすると杖をつきます。

あるいは山に登るときのストック(ピッケルを烏鷺滝が変えた)も杖です。

年をとると、杖が頼りとなり身体の支えとなってくれます。

心も痛んだとき、疲れたとき、心にも杖があるとどれほど支えとなり、力となることでしょう。

 心の杖言葉は昔の立派な人の言葉に限りません。

 自分なりに考えた言葉でもかまいません。

仕事の中でつかんだ言葉なら、なお望ましいのです。

父や母の言葉でもいいでしょう。

そして、それは転ばぬ先の杖となり、挫折しかかったときの支えにもなるだけでなく、

転んだ後の起き上がるときの支えにもなってくれます。

 そして杖言葉は、いくつあってもいいでしょう。

私自身の杖言葉でいいますと、亀井勝一郎さんの「ポンプの呼び水」というのもありました。

「ポンプの呼び水」といってもわからない人がいるでしょうが、

井戸から水をくみ上げるときに、いったんポンプに水を入れて呼び水にしないと、
 
いくら押しても空間が埋まらずに、水が上がってくれないのです。

そのとき入れる水が呼び水です。

「生涯現役、臨終定年」を杖言葉にしていた時期もありました。

そして今の私の杖言葉は「生涯修行」です。

 心の床の間は、どんなに狭い家に住んでいようとつくれます。

しかもこの床の間はいつだって持ち運びできます。

そして杖言葉は電車の中でぼんやり景色を見ていようと、

タクシーで運転手さんの背中を見ていようと、ちゃんと浮き上がってきてくれるのです。

床の間について(松原泰道師の言葉から)

2017年01月24日 | 禅の心
 人はよく「心の持ち方しだいだよ」などといいます。

しかし、心の持ち方などといったように形で論じますと、どうしても観念論になってしまいます。

私としては観念論は排したいので、心の機能を開発するといいたいのです。

 悔しいというか腹が立つとかいった気持ちを、刃物を手にする方に開発するか、

自分の中に新しい生命なり悟りを開発するか、これは大きな開きになります。

 私は、一つの方法として、「心に床の間を持とう」と提唱しています。

 今のマンションや建て売り住宅には、床の間のない家は珍しくありませんが、

戦前の家庭には必ずといっていいほど床の間がありました。

 神棚や仏壇は別として、そこは家の中心とされたものです。

床の間はタンスの一棹や二棹置くことのできるほどの空間があります。

考えようによっては実に無駄なスペースです。

しかし、この無駄なスペースによって、日本人は心に間を持つことができたのです。

そして、そこに気に入った書画をかけ、簡素な生け花を置いて、あとはいっさい空のままにしていました。

 占領時代に多くの家屋が占領軍の将校用に接収されましたが、

彼らには床の間の意味がわかりません。

ラジオや家具などをぎっしりと置いて、まるで物置みたいにしてしまったという話があります。

 確かに住宅難のいま、私たちの多くが床の間を持つことができなくなってしまっています。

とはいえ、壁やふすまに掛け軸をかけ、その下に化粧ビンやウイスキーの空き瓶に一輪の花をさしておくくらいのことはできるでしょう。

そうすれば、床の間の代わりになり、住む人の心も落ち着くものです。

 私の書斎は六畳ひと間で、じつにちらかっております。

家内が片付けたりしますと、

「きちんと散らかしてあるのに、なんでだらしなく片付けるんだ。」

などと勝手なことを言ったりします。

それでも壁に額をかけ、柱に短冊の一つも貼り、

花を活けて、線香などを立てますと、そこに床の間らしい中心ができます。

 たとえそれができなくても、せめて心の中に、床の間の空間ぐらいのゆとりはとっておきたいものです。



烏鷺滝が参拝について語る

2017年01月20日 | 仏の心
○神社やお寺に行って何をお願いするのかの。
○お願いばかりされたのじゃあ、神様、仏様はたまったものじゃないわの。
○宮本武蔵も「神仏は信じるが、頼りにはせんのんじゃ」と言うとる。
○神様や仏様には、「ようもまあ毎日つつがのう過ごさせてもろうとります」
と、お礼を言うだけでええんじゃ。
○お願いではのうてお礼じゃね。

澤木興道老師の言葉

2017年01月17日 | 禅の心
○めいめいが世界である。自分が死ぬと世界が死に、世界が滅する。オレが生まれたときにこの世界が生まれたのだ。するとお前が死んでもまだこの世界は残っているのではないかという。いや、オレの分はもう死んだというのだね。つまり人人(にんにん)はそのままで何の不足もない完全無欠なものである。この完結した自分を会得するのが仏道である。

○いつも仏さまと引っぱり合いをしている。どちらが強いか。仏を引き入れてこっちの餌にしようというのが、凡夫澤木である。そいつは澤木の内容を豊富にして、人間のなかで押し合いをして、押しも押されぬ人間になろうと思う。