行雲流水

仏教をテーマとした記事を掲載しています。

理性と感性

2010年03月30日 | 禅の心
何年か前から、「空気読め」という言葉が使われるようになりました。

まわりの雰囲気を考えなさいということでしょう。

しかし私は、この「空気読め」に危険なものを感じています。

たとえ間違っていることでも、「空気」の方が優先される可能性があるからです。

明治以降、昭和20年までの戦争はまさにそうだったと思うからです。

人を殺すということは間違ったことなのに、肯定されてしまうからです。

「みんな戦争に向かっているのに空気がよめないのか」

ということになります。

感性であるとか、感覚的に物事をとらえることは必要なことだと思います。

ある意味「空気を読む」ことも感覚的に物事をとらえることになるでしょう。

「感性」「感覚」「本能」という言葉の対極にあるのが、「理性」「理屈」「論理」と言った言葉になるでしょうか。

感性を伸ばすことは必要ですが、それだけでは人間らしく生きていくことができません。

それを理性によって補完する必要があります。

感性と理性は車の両輪のようなものです。

バランスを保ってこそ、幸せな生活が送れるのです。

「つべこべ理屈を言うな」ではなく、理屈を考えてみることも大切なのです。
コメント (2)
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正法眼蔵

2010年03月26日 | 禅の心
京都府伊根町

道元禅師が、正法眼蔵を端的に歌いあげています。

波も引き 風もつなかぬ 棄てをふね 月こそ 夜波の さかりなりけれ

静かな海岸に捨てられた小舟にただ月光で満ちている。

小舟は、何ものにもとらわれず、惑わされずただ、海面に浮いていますが、月光という真理で満たされているのです。

正しい仏法は、正しい智恵の眼で見、全ての真理で満たされています。

澤木興道老師は、正法眼蔵を一切の経の内容を一言で言ったものだとも定義しておられます。

私たちは、好むと好まざるにかかわらず、日常生活において物事を歪めて見てしまう癖をつけてしまっています。

それは、自分の都合という、波や風によって歪められるのです。

ですから、時によっては人殺しが戦争という形で正当化されたりもするのです。

誤解が生じやすいのですが、戦争が良いものとか悪いものとかということを越えると、絶対にあってはならないものだという真理が浮かび上がってくるような気がします。(観念的なことで難しいのですが・・・・・・)

この世は、善悪、正邪、美醜などを越えた真理の月光で満たされているのです。

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2010年03月23日 | 禅の心
「喝」という禅語ほど、簡単に用いられているものはありません。

「喝」をよく使っていたのは、臨済禅師です。

しかし、臨済禅師よりも前に馬祖道一禅師が使い始めたと言います。

さて、「喝」をよく使っていた臨済禅師ですが、「臨済の四喝(しかつ)」として有名です。

有る時の一喝は金剛王宝剣の如く、有る時の一喝は 踞地 ( こじ ) 金毛 ( きんもう ) の獅子の如く、有る時の一喝は 探竿 ( たんかん ) 影草 ( ようぞう ) の如く、有る時の一喝は一喝の 用 ( ゆう ) を作(な)さず。


簡単に言えば、

1.何でも切れる金剛王宝剣のように、煩悩をスパッと断ち切る。

2.百獣の王ライオンのように、あたりすべての者が畏れおののく。

3.漁師が竿で草の下の魚を探るように、修行僧の力量を見極める。

4.喝の役割を示さない喝。・・・・・実は、これが一番重要なのです。

喝と言えば、若い人たちがカッコいい言葉としてむやみやたらと使うのですが、修行のできている者が使ってこそ意味のある言葉なのです。

喝は天の声であり、宇宙に響き渡る声です。

喝の役割を示さない喝とは、自分自身が宇宙と一続きであることを実感できる喝なのです。

喝の役割を示さない喝は、無心です。無欲です。何ものにもとらわれない清浄な心が発する喝なのです。

赤ちゃんがこの世に生を受けて発する第一声の「おぎゃー」という声が、「喝」と聞こえればそれでいいのです。

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洗面

2010年03月19日 | 禅の心
心と体は、1つのものであって、2つに分けることのできないものです。

だからこそ、清浄な心を保つためには、身体を清浄に保っておかなければなりません。

若い人たちが、登山活動で数日山で過ごすときに、風呂やシャワーがなくて嫌な思いをします。

指導する側は、「ないものはないのだから、我慢しろと」いいますが、

若い人たちが、体をきれいにしたいという思いは自然なものであり、大切な事であります。

私たちの体は、仏さまからの預かりものです。

その仏さまからの預かりものを常にきれいに保っておく必要があります。

体を隅々まで洗い、歯を丁寧に磨き、顔をきれいに洗う。

顔は、仏さまの姿が表れるところなので特に大切です。

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上座部仏教

2010年03月16日 | 禅の心
一昨年に、スマナサーラ長老の、『般若心経は間違い』という著書が話題になりました。

スマナサーラ長老の提言には賛否両論がありますが、私は、決してまちがってはいないと思います。

間違ってはいないとは言っても、宗教一般から言えばのことで、日本の大衆部仏教の立場から言えば違和感があると思います。

私は、そもそも東南アジアなどの上座部仏教と日本や中国の大衆部仏教を同じものとして考えるのが間違いで、異なった宗教として考えるべきだと思っています。

それは、ユダヤ教とキリスト教ほどの違いがあると思っています。

ユダヤ教とキリスト教の関係は、上座部仏教(小乗仏教・テーラワーダ仏教)と大衆部仏教(大乗仏教)の関係に似ています。さらに言えば、密教というのは、イスラム教の立場に似ています。

上座部仏教は、原始教典を元にしていますが、大衆部仏教も原始教典は基礎となるものです。これは、ユダヤ教でもキリスト教でも旧約聖書が読まれているのに似ています。

しかし、上座部仏教は出家主義という点で、大衆部仏教と大きな違いがあります。
また、般若心経のような教典に違和感があるのも確かでしょう。

上座部仏教と、大衆部仏教は、同じ仏教と言っても、大きな違いがあることを認識しておく必要があると思います。


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