行雲流水

仏教をテーマとした記事を掲載しています。

その柩はどこへ

2010年08月31日 | 禅の心
その柩は
どこへ行くのですか
火葬場へ
それからどこへ行くのですか
お墓へ
それからどこへ行くのですか
(川路柳虹『柩』)

弘法大師も、

生き、生き、生きて生のはじめに暗く
死に、死に、死に、死んで死の終わりに冥(くら)し

と言っています。
人間はどこからきてどこへ行くのかわかりません。

死をテーマとして、生きることの意味を考えていくことは仏の教えの大きなテーマの一つです。死をマイナスに考えるのではなく、あくまでも死を通して生のすばらしさを考えていくのが大切なのです。
どこから来て、どこへ行くのかはわからないけど、この人生をいかに充実して送っていくかが重要なのです。

写真は、広島市安佐北区の墓地内にある旧火葬場

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

覚醒剤よりも怖いもの

2010年08月27日 | 禅の心
他人の悪口は甘い味がするものです。

他人の悪口を口に出すことによって、

一時的には、気持ちが落ち着きます。

しかし、他人の悪口を言い続けていると、

自分自身の心を壊していき、

嫌な人間になってしまいます。

顔も嫌な顔になっていきます。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

沢庵禅師と地獄の話

2010年08月24日 | 禅の心
江戸時代初期の名僧、沢庵禅師にはいろいろな逸話があります。

 旗本の水野十郎左衛門という人は、将軍・徳川家光に重く用いられていた沢庵が何かと気に入りませんでした。水野十郎左衛門という男、旗本とはいっても、今で言う不良で、日頃から行いのよくない人物でした。ある日、鷹狩りに出かける折りに沢庵に出合った十郎左衛門は、「そちは、上様(家光)に地獄の話をして、上様をたぶらかしておるそうじゃな。本当に地獄があるのかの。どうなんじゃ。」と聞きました。
 黙って聞いていた沢庵は、口を開くと「これはこれは、水野様。今日は天気がよろしゅうございますのに、どうして笠などかぶっていらっしゃいますのかの?」と言いました。十郎左衛門は「山の天気は変わりやすいからのう、こんなに天気がよくても夕立が降るかもしれないからの。」と言いました。
沢庵は、「地獄も同じでございますぞ。地獄があるかないかわからないのなら、もし地獄がある時のために、普段から心の準備をしておいた方がよろしゅうございましょうが。」と返しました。
 地獄にかぎりません。物事がどちらかわからない場合は、悪い状況を想定して準備しておくことが大切です。
  以前、テレビで、ビートたけしのお兄さんの北野大教授が、「地球温暖化で、海水面がどこまで上昇するかわからないが、想定される最高の状況を考えて対策を考えておくのがいい。もしそこまで海面が上昇しなかったとしてもそれはそれでいい。」というようなことを言っていました。
 もしもの時の心の準備と対策。登山をするときはもとより、普段から心がけておくべきでしょう。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

一期一会

2010年08月20日 | 禅の心
一期一会は、幕末の大老、井伊直弼の言葉です。茶人としての井伊直弼の言葉ですが、決してお茶の世界だけの話ではありません。この世に生まれてきたのも一度限り。大切な出会いもいつか別れの時がくる。だからこそ充実した人生を生き、出会いを大切にしていこうという精神です。
「たったひとりしかいないじぶんを、たった一度しかない一生を本当に生かさなかったら
人間生まれてきたかいがないじゃないか」
山本有三が『路傍の石』の中で、次野先生をして吾一少年に語らしめている言葉です。一度限りの人生だから、一生です。悔いのない人生、悔いのない出会いを得ていきたいと思っています。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

世間というもの

2010年08月17日 | 禅の心
どこかの国の話にこのようなものがありました。



父と息子が、ロバを連れて旅をしていました。



それを見ていた人が言いました。「せっかくだから、ロバに乗ればいいのに」



と言うわけで、子供をロバに乗せて、お父さんはロバを引いて歩きました。



すると、これを見ていた別の人が、「お父さんは年をとっていて、息子は若いのだから、お父さんがロバに乗るべきだ。」と言いました。



というわけで、お父さんがロバに乗って子供がロバを引いて歩きました。



するとまた別の人が、「子供は幼くてまだ体ができていないのだから、息子がロバに乗るべきだ」と言いました。



と言うわけで、息子だけがロバに乗るとはじめと同じになってしまうので、父子ともにロバに乗りました。



するとまた別の人が、「ロバに2人も乗ったらロバが可愛そうだ。」と言いました。



というわけで、それならロバを棒にくくりつけて、父子でロバを担いで歩きました。



この話から何を感じられるでしょうか。日本では子供をロバに乗せて、西洋では子供を歩かせるのが一般的な考え方なのかもしれません。実際のところ、どちらが正しいとかということはなくその場所その時の価値観によって変わるものなのです。しかし、ここではそのようなことを言っているのではなく、自分の方針や考え方がなく、世間というものにふらふらと左右されている人々を皮肉っているのです。世間がゆとり教育だと言えば、ゆとり教育が正しいと思い、世間が詰め込み教育だと言えば、詰め込み教育が正しいと思う。世間に流されない生き方、それが宗教的な生き方なのです。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする