行雲流水

仏教をテーマとした記事を掲載しています。

勝ち組なんかにならなくてもよい(『徒然草』)

2013年08月30日 | 空海 真言宗 金剛峯寺
物に争はず、己れを枉げて人に従ひ、我が身を後にして、人を先にするには及かず。
 万の遊びにも、勝負を好む人は、勝ちて興あらんためなり。己れが芸のまさりたる事を喜ぶ。されば、負けて興なく覚ゆべき事、また知られたり*。我負けて人を喜ばしめんと思はば、更に遊びの興なかるべし。人に本意なく思はせて我が心を慰めん事、徳に背けり*。睦しき中に戯るゝも、人を計り欺きて、己れが智のまさりたる事を興とす。これまた、礼にあらず。されば、始め興宴より起りて、長き恨みを結ぶ類多し。これみな、争ひを好む失なり。
 人にまさらん事を思はば、たゞ学問して、その智を人に増さんと思ふべし。道を学ぶとならば、善に伐らず、輩に争ふべからずといふ事を知るべき故なり。大きなる職をも辞し、利をも捨つるは、たゞ、学問の力なり。(『徒然草』第130段)



他人と争わず、自分を押さえて他人に従うようにして、自分のことは後回しにして、他人のことを優先する方が無難だ。
いろいろな遊びにしても、勝負を好む人は、勝ってのぼせ上がるためだ。自分の腕前が他人より優れていることを喜ぶからだ。ということは、負ければテンションが下がることもまたわかりきったことなのだ。自分が負けたことによって他人を喜ばせていると思うと、まったく遊びが面白くなくなってしまうものだ。人をがっかりさせておいて、自分の気持ちを慰めるのは徳に背くことになって気持ちが悪い。親しい人の間で遊んでいるのに、他人を騙し欺いて、自分の智恵が優れていることを見せつけて自分に酔っている。これはまた礼儀知らずというものなのだ。だからこそ、遊びや酒の席がもとで、恨みつらみが長く尾を引くという例が多いのである。これらはみな、人が争いを好むことの弊害なのである。人より優れていることを考えるのであれば、ただ学問をして、その智恵の上で人に勝ろうと思えばいいのだ。道理を学ぶのだから、自分の長所をひけらかさず、仲間と争うべからずということがわかっているはずだ。重要な官職さえも辞し、利益をも捨てることができるのは、ひとえに学問の力である。


はじめの段落から兼好の考え方に誤解しがちですが、長いものに巻かれて従順に生きなさいと言っているのではありません。逆に、金持ちになったり、出世して世間の奴隷になって自分を失う生き方をせせら笑っているのです。勝ち組になったと言ってのぼせ上がっている現代人に対する叱咤でもあります。

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『徒然草』に少欲知足を学ぶ

2013年08月27日 | 空海 真言宗 金剛峯寺
勝とうとするな

双六の上手といひし人に、その手立を問ひ侍りしかば、「勝たんと打つべからず。負けじと打つべきなり。いづれの手か疾く負けぬべきと案じて、その手を使はずして、一目なりともおそく負くべき手につくべし」と言ふ。
道を知れる教、身を治め、国を保たん道も、またしかなり。



双六の名人と言われている人にその秘訣を訪ねたところ、「勝とう思うて双六しちゃあいけんよ。負けんようにしよう思うて双六するんじゃ。どの手が早う負けるかをよう思案して、その最悪の手を使わんようにして、一目だけでも遅う負ける方の手を選ばにゃいけんよ。」と言われた。この言葉は本当にその道を知っている者の教えであって、自分の人格を磨き、国を保つ道もこれと同じである。

徒然草の第110段です。この段の一番重要な部分は最後の一行
>道を知れる教、身を治め、国を保たん道も、またしかなり。
です。何でもかんでも人に勝ことばかり考えていると、いつか身を滅ぼすことになります。会社を経営していても、大もうけしようとしなくても、会社を潰しさえしなければいいのです。国家でもそうです、他国を侵略する国は滅んでしまいます。
ここでは小欲知足ということを言っているのです。「小欲知足=欲張るな」こそ人生の極意なのです。人間から欲をなくすことはできませんが、欲を少なくすることはできます。人生何事もほどほどなのがいいのです。

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とらわれなき心を『徒然草』に学ぶ

2013年08月23日 | 空海 真言宗 金剛峯寺
里芋の大好きな坊さんの話

この話は兼好の『徒然草』の中でも私の大好きな段です。今でいう天然ぼけの盛親僧都ですが、何をしても憎めない、人徳のなせるわざなのです。原文と私の下手な現代語訳でお読み下さい。


真乗院に、盛親僧都とて、やんごとなき智者ありけり。芋頭といふ物を好みて、多く食ひけり。談義の座にても、大きなる鉢にうづたかく盛りて、膝元に置きつゝ、食ひながら、文をも読みけり。患ふ事あるには、七日・二七日など、療治とて籠り居て、思ふやうに、よき芋頭を選びて、ことに多く食ひて、万の病を癒しけり。人に食はする事なし。たゞひとりのみぞ食ひける。極めて貧しかりけるに、師匠死にさまに、銭二百貫と坊ひとつを譲りたりけるを、坊を百貫に売りて、かれこれ三万疋を芋頭の銭と定めて、京なる人に預け置きて、十貫づつ取り寄せて、芋頭を乏しからず召しけるほどに、また、他用に用ゐることなくて、その銭皆に成りにけり。「三百貫の物を貧しき身にまうけて、かく計らひける、まことに有り難き道心者なり」とぞ、人申しける。
この僧都、或法師を見て、しろうるりといふ名をつけたりけり。「とは何物ぞ」と人の問ひければ、「さる者を我も知らず。若しあらましかば、この僧の顔に似てん」とぞ言ひける。
この僧都、みめよく、力強く、大食にて、能書・学匠・辯舌、人にすぐれて、宗の法燈なれば、寺中にも重く思はれたりけれども、世を軽く思ひたる曲者にて、万自由にして、大方、人に従ふといふ事なし。出仕して饗膳などにつく時も、皆人の前据ゑわたすを待たず、我が前に据ゑぬれば、やがてひとりうち食ひて、帰りたければ、ひとりつい立ちて行けり。斎・非時も、人に等しく定めて食はず。我が食ひたき時、夜中にも暁にも食ひて、睡たければ、昼もかけ籠りて、いかなる大事あれども、人の言ふ事聞き入れず、目覚めぬれば、幾夜も寝ねず、心を澄ましてうそぶきありきなど、尋常ならぬさまなれども、人に厭はれず、万許されけり。徳の至れりけるにや。


仁和寺の別院の真乗院に盛親僧都というとても高徳の坊さんがいた。芋頭(里芋)というものが大好物でたくさん食べるのだった。仏典を講義するときにも、芋頭を大きな鉢に山盛りにして膝元に置いて、それを食べながら講義するのだった。病気をしたときには1週間、2週間と、療養と称して自坊に引きこもり、芋頭の良いものを選んで思う存分、いつもよりも多く食べて、どんな病気もなおしてしまうのであった。しかし、芋頭を人にやることはない。ただ、ひとりだけで食べるのであった。 とても貧しかったが、師匠の死に際に銭200貫と僧坊1つを譲ってくれたので、僧坊は100貫で売りに出して合計3万疋(=300貫)を芋頭を買うお金と決めて、京都市内に住む人に預けておいて、10貫ずつ取り寄せては芋頭を思う存分召し上がっているうちに、他のことに使うことなく300貫すべてなくなってしまった。「貧しい身で300貫手に入ったのに、芋頭を食べることだけに使ってしまうとは、本当に世にも珍しい道心者じゃねえ」と人々は評判したものだ。
この盛親僧都は、あるお坊さんをみて「しろうるり」というあだ名をつけた。「しろうるりとはどがあなもんかいのお」と人が聞けば、「そがなもん、ワシもしらんわい。しろうるりがもしあったら、この坊さんの顔に似とるんじゃろう」と答えた。
この盛親僧都は、ハンサムで力も強く、大食いで文章もうまく学識があり、口も達者だった。真言宗の高僧で仁和寺でも重く用いられていたけど、世間を馬鹿にしている変わり者で、何をするにも我が物顔に振る舞い、人に合わせることはしない。法要があっておよばれをするときでも、周りの人全員に膳が行き渡るのを待たずに、自分の分の膳がくれば、周りを待たずにさっさと食べてしまって、帰りたくなれば、さっと立って帰っていく。斎(正規の食事)も非時(午後の食事)も他の人と同じように定時に食うことはない。自分が食いたくなれば、夜中だろうが、早朝だろうが食い、眠たくなれば昼から部屋にこもってどんな一大事があろうとも、人の言うことには耳を貸さず、目が覚めれば、幾夜も寝ることなく、心を澄まして、詩歌を吟じつつ歩き回るなど、まったく常識はずれの変わり者だが、だからといって、人に嫌われるわけでもなく、全てが許されていたのだ。これはものすごく人徳のあった人だからだろう。

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心頭を滅却すれば火も自ずから涼し

2013年08月20日 | 禅の心
『碧巌録』より

夏日題悟空上人院詩  杜荀鶴

三伏閉門披一衲
兼無松竹蔭房廊
安禅不必須山水
滅却心頭火亦涼


夏日(かじつ)悟空上人(ごくうしょうにん)の院に題するの詩  
 杜(と)荀鶴(じゅんかく)

三伏(さんぷく)門を閉ざして一衲(いちのう)を披(き)る
兼ねて松竹の房廊(ぼうろう)を蔭にする無し
安禅(あんぜん)必ずしも山水を須(もち)いず
心頭(しんとう)を滅却(めっきゃく)すれば火も亦(また)涼し





夏の暑いまっさかりに、悟空上人という方は相変わらず一枚の破れ衣をキチンと身に着けて坐禅をしておられます。しかも炎熱を避ける一株の松も一本の竹もない、まったくの炎天下と同様です。この方を見ていると、坐禅をするのに静かな山中か水辺に居を求める必要はなさそうです。上人のように心頭を滅却し寒熱を超越された方は、暑さに心を 煩 ( わずら ) わされることもなく、炎熱もまた楽しといった様子です



○甲斐国(山梨県)の快川という坊さんが、織田信長の子供の織田信忠に攻め滅ぼされる時に、火の中でこの「心頭を滅却すれば火も自ずから涼し」という言葉を言って死んでいったそうな。



○野球部の監督が偉そうに、「心頭を滅却せい!。涼しゅうなるんじゃ」と言ったが、暑いもんは暑いんじゃ。

○快川のように修行のできた坊さんでも暑いもんは暑い。

○ゴルフに夢中になっている人は暑さを忘れておるし、スキーに夢中になっておる人は寒さを忘れておる。

○楽しいと思えば暑さや寒さを忘れるんじゃ。

○しかし、暑いもんは暑いし寒いもんは寒い。

○暑いときには「暑い」と言えばいいし、寒いときには「寒い」と言えばいい。

○苦しい時には苦しいと言えばいい。

人間なんじゃから。

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国語の教科書を読んでみましょう

2013年08月16日 | 禅の心
これは千葉県の仏母寺という尼寺の住職である安井玉峰さんのお書きになった『キジの儀式』です。中学校の教科書より引用しました。(中学校『国語3』 光村図書出版)




五月も半ばというのに、どんよりとして何となく肌寒い日でした。昨年のことです。午後二時を過ぎたころ、私は一人、お茶室でお道具の後片づけをしていました。と、ドスンという、鈍い音がしました。外の壁に、何か投げつけられたのでは、と瞬間思った私は、とりあえず庭に出て見回ったのですが、何事もないのです。かけいの水はつくばいに糸のように音もなく流れ、生け垣に囲まれた茶室の庭には、人っ子一人いるわけではありません。

 何とも片づかぬ思いで、戻ろうとふと空を仰いだとき、驚いたことに、真上の屋根のひさしから、なんとキジが一羽、のぞいているではありませんか。あの警戒心の強い野生の鳥が、スズメかハトのように。これはどうしたことかとそこを離れ、屋根の上を見ようとするとその瞬間、キジはひらりと舞い降りたのです。立ちすくんで行く手を見下ろすと、まあ、そこには美しい雄のキジが倒れていました。舞ったのは雌のキジだったのです。私はすべてを悟りました。

 寺のくすんだ乳白色の壁は、このどんよりした空の色の中に、そのまま溶け込んでいたのでしょう。そのうえ、私の寺は山の稜線上にありますから、なおのこと、キジには空と見えたのでしょう。さっき聞いたのは、痛ましいことになった音だったのです。

 これまで茶室の庭に、時おり、連れ立ってキジが二羽、遊びに訪れていることがありました。しかし、私を見ると、そそくさと立ち去るのです。雄が雌を誘うように先導して・・・。「もっと遊んでおいで。」と、思わず声をかけるのでしたが、警戒心を解きません。でも、それでいいのです。毎年シーズンには、この寺の庭先にさえ、ハンターを見かけるのですから。それにしても、私の前で、一羽が倒れるとは。

 駆け寄った私は、痛ましさに胸がいっぱいになり、キジのそばにしゃがみ込みました。が、あんなに警戒心の強い雌キジが、今はもう私のことなど意識になく、コー、コーと小さい呼び声をしながら、彼の周りをぐるぐる回っています。時おり、彼女の尾羽根が私の衣のすそに触れます。そのうち、彼女は彼のくちばしの付け根を軽くコツコツとつつき始めました。コー、コー。「起きなさい。」といわんばかりです。それでも、なんの反応もないと、今度はトサカやほおの毛をくちばしでくわえて、持ち上げようとするではありませんか。

 頭はわずかに上がりますが、またすぐ地面に落ち、黒いひとみは閉じられたままです。ついに、彼女は彼の体に駆け上がり、必死にコー、コーと鳴き(泣き)ながら、ひとしきり激しく頭をくわえて引っぱりました。もとより効き目はありません。聞いていたキジの情愛の深さとはこれほどのものかと感じ入って、彼女の姿が涙で見えなくなりました。

 この辺りは野犬も多く、ネコも出没することだから、このままにはできません。気がついてみると、彼女はやっと事の次第を納得したのか、離れては近寄り、それを数回繰り返して、寺の西の林へゆっくり去っていきました。放心して見つめる私が、なきがらの始末をしてやろうとすると、何か気配がしました。振り返ると、彼女は戻ってきたのです。私から三メートルほど離れて、じっとこちらを見ています。と、今度は決心したかのように、彼のそばへつかつかと力強い足取りで近づき、二度、三度、彼のくちばしをつつき、声も出さず振り返りもせずに去っていき、戻って来ませんでした。

 これは別れの儀式でした。野生のキジにそんなものが・・・。この信じがたい光景は紛れもなくキジの儀式です。儀式とは真実の姿。人間界ではとかく儀式が形式に流れやすい。野生の世界には形式はありません。たった今、目の前で、この夫婦は今生の別離をしたのです。はかなかった、短い一生の・・・。彼女は真心をささげて、別れのあいさつをしたのです。命がけで・・・。

 私は衣を広げ、キジを包むように抱き上げてやりました。見事な彼の尾は両の腕に余り、はねて私のほおに触れました。ほのかなぬくみが薄い衣を透して伝わってきました。私は、「かわいそうに」と思わずつぶやきながら、そっと寺の動物供養塔の裏に埋めてやり、小さな土まんじゅうのかたわらに、墓標がわりの卯の花を植えました。キジの化身の白い花がいっぱい咲きこぼれることを願って・・・。

 その花が、夏の訪れを告げるころ、キジの命日が来ます。



お盆、葬儀などの人間の行う儀式は形式的になりすぎてきているように思います。形より心のこもった儀式が大事だと思います。



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