行雲流水

仏教をテーマとした記事を掲載しています。

知識ではない

2012年06月29日 | 禅の心
栂尾の明恵上人の語録です。

或る時云はく。「末世の衆生 、仏法の本意を忘れて、只、法師の貴きは光るなり、飛ぶなり、穀をたつなり、衣を着ざるなり、又学生也、真言師也とのみ好みて、更に宗と貴むべき仏心を極め悟る事を弁へざる也。上代大国、猶此の恨みあり。況んや末世辺州、何ぞ始めて驚くべきや」と。
上人常に語り給ひしは、「光る物貴くは、蛍・玉虫貴かるべき。飛ぶ物貴くは、鵄・烏貴かるべし。不食不衣貴くは、蛇の冬穴に籠り、をながむしのはだかにて腹行ふも貴かるべし。学生貴くは、頌詩を能く作り、文を多く暗誦したる白楽天 ・小野篁 などをぞ貴むべき。されども、詩賦の芸を以て閻老の棒を免るべからず。されば能き僧も徒事也、更に貴むに足らず。只仏の出世の本意を知らん事を励むべし。文盲無智 の姿なりとも、是をぞ梵天 ・帝釈天 も拝し給ふべき。」





あるとき(明恵上人は)おっしゃった。「末世の人々は、仏教の真意を忘れて、ただ、法師が尊く思えるのは光るからだ、(神通力をもって)空中を飛ぶからだ、断食するからだ、(寒さの中でも)衣を着ないからだ、あるいは物知りだからだ、密教に通じて祈祷を能くするからだといった事のみばかりに目が行って、決して核心ともいうべき仏心を悟ろうとしない。(といっても、)仏ご在世のインドにおいても、やはりこの様なことはあったという。ましてや今のような末世の辺境国たる日本では、今更驚くべき事でもなかろう」と。
上人が常に語られて言うには、「光る物が貴いというのであれば、蛍や玉虫を貴べばよい。飛ぶ物が貴いと言うのであれば、鳶や烏を貴んだらいいだろう。断食して衣を着ないのが貴いと言うのであれば、蛇で冬に穴に籠もっているのや、おなが虫の裸で地面を這っているのを貴んだらいい。博識な者が貴いならば、頌詩を作るのに通じ、古典を多く暗誦していたという白楽天や小野篁をこそ貴んだらよかろう。しかしながら、詩賦の才能によって閻魔の老・病・死の棒を避けることなど出来はしない。それゆえに博識な僧など虚しいものあって、決して貴がる必要などない。ただ仏陀がこの世に現れて成し遂げられ教え残されたことを悟ることこそ励むべきである。たとえそれが文盲・無知であるかの様であっても、悟りを求め努め励む者こそ梵天や帝釈天も礼拝するのである」と。




 宗教に、奇跡やオカルト的なものを尊ぶ面はあります。いろいろなことを知っていればいいという面もあります。私は、それらは、宗教への導入として大事な部分であると思います。しかし、仏教は、自己を見つめ、自己を究めることなくしては核心に触れることはできません。釈尊は、難行苦行をやめられました。それだけでは悟りが得られないと思ったからです。
 教祖様のオーラが見えたり、教祖様が空中浮揚しようが、それらは、信者をひきつけるためのパフォーマンスにしか過ぎません。また、仏教学者としていろいろなことを知っていることは良いことですが、それはあくまでも学問であって、自己を究めることにはなりません。
 自分は、いかに生きるべきか。人生とはどうあるべきかを、自分の頭で考えることが大切なのです。 

仏に逢うては仏を殺し

2012年06月26日 | 禅の心
「仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺せ。」というのは、『臨済録』の中の臨済義玄禅師の言葉です。
 これは文字通り、殺人を犯せと言っているわけではありません。本当の自分に出逢うためには、何かにすがってはいけないということです。釈尊の「自灯明、法灯明」にも通ずるものがあります。ある意味、一神教的な考え方を否定していることにもなります。
 問題をおこす新興宗教というのは、生身の教祖をあがめ奉り過ぎているところがあります。そのため、初めはまじめに人生をみつめる集団であったとしても、教祖自身もおかしな方に向かい、とんでもないことをやる教団になってしまうのです。教祖という権威に依存してしまっているのです。
 自分の頭で考えずに、強権的な政治家に誘導されてしまう若者もこれに似ています。政治家という権威に依存してしまっているのです。
 行列をつくって、他人が良いというものに群がるのもそうです。やはり、他人が良いというものという権威に依存しているのです。
 「仏に逢うては仏を殺し」というのは、権威的なものに惑わされずに、良いか悪いかを、自分の頭でよく考えなさいということなのです。

魔禅

2012年06月22日 | 禅の心
禅は、自らの心を安定させ、人徳を磨き、穏やかで平和に生活することが大きな目的の一つとしています。しかし、禅によって、「自分は偉い人間だ。」「悟ったんだ」と、謙虚さを失って、禅本来の目的とは逆の方向に行ってしまうことがあります。
  これを、魔禅とか魔境と言って、大きく戒められてきました。禅は、やり方を間違えると、独りよがりになってしまって、危険な状態になってしまいます。
 日蓮聖人は、鎌倉幕府五代執権、北条時頼に『立正安国論』を提出しました。その『立正安国論』に、「四箇の格言」といって、禅、念仏、真言、律の4宗を批判している部分があります。ただ私は、日蓮聖人が単に他宗を批判、攻撃しているのではなく、「こういう危険性がある。」と、建設的に指摘しているのだととらえています。
 禅は一歩間違えると、本来とは逆の方向に行ってしまう危険性があるのです。
 威張ったり、他人を攻撃したり、人を馬鹿にするようでは、禅の目的とは逆のことなのです。



どうしようもない わたしが 歩いている

2012年06月19日 | 道元・正法眼蔵・曹洞宗
漂泊の俳人と呼ばれている種田山頭火は、10歳の時に実母が、家の井戸に投身自殺して亡くなったのがきっかけとなって、自分を深く見つめるようになったと言ってもいいのかもしれません。

山頭火の代表作に、

どうしようもない わたしが 歩いている

があります。「どうしようもない わたし」とは、文字通り「いやな自分」とか「ダメな自分」ということではなく、「どうしようもない業を背負った」自分ということではないでしょうか。山頭火の祖母ツルが「業やれ、業やれ(業だぞ、業だぞ)」とよく言っていたそうです。業は、キリスト教や浄土真宗の「罪」にも似ていなすが、「罪」が「人間が存在している限り犯さなければならない罪」であるのに対して、「業」は「過去に行った善悪の結果」なのです。だから、業は自分の力で書き換えていくことができるのです。

私は、「このどうしようもない わたし」に、人間の持って生まれた「どうしようもない罪」と「過去のわたしの悪業」という意味を感じるのです。

私たちは、本当に自分ではどうすることもない、「罪」と、反省し、変えていくことのできる「業」を背負っているのです。「業」は昔の業つまり宿業であって、「運命」ではありません。人間が生きているということは、自分の悪業を善い業に変えて行くことだと思うのです。

自分の中のもう一人の「じぶん」

2012年06月15日 | 道元・正法眼蔵・曹洞宗
詩人の宮沢章二さんの詩を読んでみましょう。
坐禅を組む 宮沢章二

坐禅を組んで私が得るのは 名付けがたい あるもの
人には語りえない あるもの
夜明けの光にも似た さわやかなもの

木の葉のように そよぐ心が
ぴたりと そよぎをやめる そのとき
何も無い空間の 遠い奥に ひとつの泉が見えるのです

その泉から湧き出る力を
あなたに伝え得るのだろうか・・・
言葉にすれば消え去るものが この世には なんと多いのだろう

坐禅を組むわたしは 一本の木
弱くたよりない人間のわたしが
野に立つケヤキの大樹となり
豊かな生命の源に 根を張るです


「坐」という漢字は、土の上に人が二人向き合っている相(すがた)を表しています。その二人とは、自分ともう一人の「じぶん」なのです。
 俵万智さんのうたに、

泣いている 我に驚く われもいて 恋は静かに 終わろうとする
というのがありますが、「泣いている我」とそれを冷静に見ている「驚くわれ」が、まさにそのことなのです。
自分の中のもう一人の「じぶん」と出会うのが、坐禅なのです。
道元禅師も
仏道をならふというは 自己をならふなり
とおっしゃっています。
臨済禅師は、自分の中のもう一人の「じぶん」を「一無位の真人」と言われました。
もう一人の真実の「じぶん」とは「仏心」と言い換えてもいいのかもしれません。