栂尾の明恵上人の語録です。
或る時云はく。「末世の衆生 、仏法の本意を忘れて、只、法師の貴きは光るなり、飛ぶなり、穀をたつなり、衣を着ざるなり、又学生也、真言師也とのみ好みて、更に宗と貴むべき仏心を極め悟る事を弁へざる也。上代大国、猶此の恨みあり。況んや末世辺州、何ぞ始めて驚くべきや」と。
上人常に語り給ひしは、「光る物貴くは、蛍・玉虫貴かるべき。飛ぶ物貴くは、鵄・烏貴かるべし。不食不衣貴くは、蛇の冬穴に籠り、をながむしのはだかにて腹行ふも貴かるべし。学生貴くは、頌詩を能く作り、文を多く暗誦したる白楽天 ・小野篁 などをぞ貴むべき。されども、詩賦の芸を以て閻老の棒を免るべからず。されば能き僧も徒事也、更に貴むに足らず。只仏の出世の本意を知らん事を励むべし。文盲無智 の姿なりとも、是をぞ梵天 ・帝釈天 も拝し給ふべき。」
あるとき(明恵上人は)おっしゃった。「末世の人々は、仏教の真意を忘れて、ただ、法師が尊く思えるのは光るからだ、(神通力をもって)空中を飛ぶからだ、断食するからだ、(寒さの中でも)衣を着ないからだ、あるいは物知りだからだ、密教に通じて祈祷を能くするからだといった事のみばかりに目が行って、決して核心ともいうべき仏心を悟ろうとしない。(といっても、)仏ご在世のインドにおいても、やはりこの様なことはあったという。ましてや今のような末世の辺境国たる日本では、今更驚くべき事でもなかろう」と。
上人が常に語られて言うには、「光る物が貴いというのであれば、蛍や玉虫を貴べばよい。飛ぶ物が貴いと言うのであれば、鳶や烏を貴んだらいいだろう。断食して衣を着ないのが貴いと言うのであれば、蛇で冬に穴に籠もっているのや、おなが虫の裸で地面を這っているのを貴んだらいい。博識な者が貴いならば、頌詩を作るのに通じ、古典を多く暗誦していたという白楽天や小野篁をこそ貴んだらよかろう。しかしながら、詩賦の才能によって閻魔の老・病・死の棒を避けることなど出来はしない。それゆえに博識な僧など虚しいものあって、決して貴がる必要などない。ただ仏陀がこの世に現れて成し遂げられ教え残されたことを悟ることこそ励むべきである。たとえそれが文盲・無知であるかの様であっても、悟りを求め努め励む者こそ梵天や帝釈天も礼拝するのである」と。
宗教に、奇跡やオカルト的なものを尊ぶ面はあります。いろいろなことを知っていればいいという面もあります。私は、それらは、宗教への導入として大事な部分であると思います。しかし、仏教は、自己を見つめ、自己を究めることなくしては核心に触れることはできません。釈尊は、難行苦行をやめられました。それだけでは悟りが得られないと思ったからです。
教祖様のオーラが見えたり、教祖様が空中浮揚しようが、それらは、信者をひきつけるためのパフォーマンスにしか過ぎません。また、仏教学者としていろいろなことを知っていることは良いことですが、それはあくまでも学問であって、自己を究めることにはなりません。
自分は、いかに生きるべきか。人生とはどうあるべきかを、自分の頭で考えることが大切なのです。
或る時云はく。「末世の衆生 、仏法の本意を忘れて、只、法師の貴きは光るなり、飛ぶなり、穀をたつなり、衣を着ざるなり、又学生也、真言師也とのみ好みて、更に宗と貴むべき仏心を極め悟る事を弁へざる也。上代大国、猶此の恨みあり。況んや末世辺州、何ぞ始めて驚くべきや」と。
上人常に語り給ひしは、「光る物貴くは、蛍・玉虫貴かるべき。飛ぶ物貴くは、鵄・烏貴かるべし。不食不衣貴くは、蛇の冬穴に籠り、をながむしのはだかにて腹行ふも貴かるべし。学生貴くは、頌詩を能く作り、文を多く暗誦したる白楽天 ・小野篁 などをぞ貴むべき。されども、詩賦の芸を以て閻老の棒を免るべからず。されば能き僧も徒事也、更に貴むに足らず。只仏の出世の本意を知らん事を励むべし。文盲無智 の姿なりとも、是をぞ梵天 ・帝釈天 も拝し給ふべき。」
あるとき(明恵上人は)おっしゃった。「末世の人々は、仏教の真意を忘れて、ただ、法師が尊く思えるのは光るからだ、(神通力をもって)空中を飛ぶからだ、断食するからだ、(寒さの中でも)衣を着ないからだ、あるいは物知りだからだ、密教に通じて祈祷を能くするからだといった事のみばかりに目が行って、決して核心ともいうべき仏心を悟ろうとしない。(といっても、)仏ご在世のインドにおいても、やはりこの様なことはあったという。ましてや今のような末世の辺境国たる日本では、今更驚くべき事でもなかろう」と。
上人が常に語られて言うには、「光る物が貴いというのであれば、蛍や玉虫を貴べばよい。飛ぶ物が貴いと言うのであれば、鳶や烏を貴んだらいいだろう。断食して衣を着ないのが貴いと言うのであれば、蛇で冬に穴に籠もっているのや、おなが虫の裸で地面を這っているのを貴んだらいい。博識な者が貴いならば、頌詩を作るのに通じ、古典を多く暗誦していたという白楽天や小野篁をこそ貴んだらよかろう。しかしながら、詩賦の才能によって閻魔の老・病・死の棒を避けることなど出来はしない。それゆえに博識な僧など虚しいものあって、決して貴がる必要などない。ただ仏陀がこの世に現れて成し遂げられ教え残されたことを悟ることこそ励むべきである。たとえそれが文盲・無知であるかの様であっても、悟りを求め努め励む者こそ梵天や帝釈天も礼拝するのである」と。
宗教に、奇跡やオカルト的なものを尊ぶ面はあります。いろいろなことを知っていればいいという面もあります。私は、それらは、宗教への導入として大事な部分であると思います。しかし、仏教は、自己を見つめ、自己を究めることなくしては核心に触れることはできません。釈尊は、難行苦行をやめられました。それだけでは悟りが得られないと思ったからです。
教祖様のオーラが見えたり、教祖様が空中浮揚しようが、それらは、信者をひきつけるためのパフォーマンスにしか過ぎません。また、仏教学者としていろいろなことを知っていることは良いことですが、それはあくまでも学問であって、自己を究めることにはなりません。
自分は、いかに生きるべきか。人生とはどうあるべきかを、自分の頭で考えることが大切なのです。