行雲流水

仏教をテーマとした記事を掲載しています。

盛永宗興老師の言葉

2015年10月30日 | 禅の心
当時、原佑という若い哲学の教授がおりました。のちに東大の哲学科の教授に転じた人ですが、若くして亡くなりました。

兄貴分のような人でした。

「僕にも発言させてくれないか。」

彼がこう言って、演壇に立ったことがあります。

「私が専攻したカントという哲学者はこう言っている。

『善とは何か、悪とは何かを生涯かけて追求しても、我々はそれを手に入れることはできない。人間が手に入れることができるのは、善悪を決めていく基準だけだ。』

かつて日本の物差しによってこの戦いは善であり、アメリカの物差しによってこの戦いは悪であるとした。それは歴史が判断することだが、君たちが今求めているもの、真の善悪の基準、少しでも長い時間、少しでも広い地域において信奉していくことのできる基準は、そうたやすく手に入るものではないと思う。だからそういうものを生涯かけて手に入れるためにも、君たちは不安であるだろうけれども、地道な勉強を再開してくれないか。」

実にすばらしいアドバイスであったと思います。

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烏鷺滝が慈悲を語る

2015年10月27日 | 親鸞・歎異抄・浄土真宗
○慈悲の心はまず、自分をしっかりと肯定しなければならない。

○自分の心が充実していないと慈悲の心を保っていくことはできない。

○他人を攻撃する人は、自己愛が強い場合もあるが、自己愛が強いのは自己をきちんと肯定していないこともある。

○自分を肯定することは自己愛が強いことではない。

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山本玄峰老師が無常を語る

2015年10月23日 | 禅の心
いくら財産があっても、人間の性根玉が狂ったらクソにもなりはせん。

どんなに結構な宝物があっても、家財道具が十分に整うておっても、

バカ野郎ができれば、どんな富豪でもつぶれていく。

第一自分の体がもてん。

坐禅は一切の諸道に通ずるというのは、何も坐禅が通じるのではないんじゃぜ。

天下の理をほしいものにする者は天下を失うのじゃ。

天下の理に従う者は天下を保つのじゃ。

自然の道理にキチンキチンと何事によらず、はまり込んでいくようにするために坐禅するのじゃ。

馬のクソをつくねたような枯れ木が突っ立っておるような坐禅が、何にもなるのじゃない。

だから六祖大師は、理に明らかにならざれば、何の益かあらんと言うておる。


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お金の亡者になるな

2015年10月20日 | 法句経
わが子よ わが財よと

愚者は 思い悩む

わが身さえ わが自由にならぬを

何のわが子ぞ 何のわが財ぞ



子供でさえ、「お金があれば何でもできる。」「お金が幸せの物差しだ。」

と、言うようになってしまいました。

お金持ちが尊敬されているのではなく、人はお金に頭を下げているのです。

仏の教えとは、ある意味、社会主義、共産主義に似たところがあります。(あくまでも似たところがあるというのであって、そのものではありません。)

財産や自分の体でさえ、仏さまからの預かりもので、自分が所有しているわけではないという考え方です。

だから、最後には自分の体や財産をあの世に持って行くことはできません。

「お金を積むより徳を積め」と言います。

お金を持っていることで尊敬されるよりも、徳を持っていることで尊敬される方が良いと思います。

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ダライラマの言葉

2015年10月16日 | 禅の心
The more we succeed in training our hearts and minds through cultivating spiritual qualities, the better our ability to cope with adversity.

精神面を磨いて、心を鍛えるならば、同時に逆境を乗り越える力も養われるでしょう。

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