当時、原佑という若い哲学の教授がおりました。のちに東大の哲学科の教授に転じた人ですが、若くして亡くなりました。
兄貴分のような人でした。
「僕にも発言させてくれないか。」
彼がこう言って、演壇に立ったことがあります。
「私が専攻したカントという哲学者はこう言っている。
『善とは何か、悪とは何かを生涯かけて追求しても、我々はそれを手に入れることはできない。人間が手に入れることができるのは、善悪を決めていく基準だけだ。』
かつて日本の物差しによってこの戦いは善であり、アメリカの物差しによってこの戦いは悪であるとした。それは歴史が判断することだが、君たちが今求めているもの、真の善悪の基準、少しでも長い時間、少しでも広い地域において信奉していくことのできる基準は、そうたやすく手に入るものではないと思う。だからそういうものを生涯かけて手に入れるためにも、君たちは不安であるだろうけれども、地道な勉強を再開してくれないか。」
実にすばらしいアドバイスであったと思います。
兄貴分のような人でした。
「僕にも発言させてくれないか。」
彼がこう言って、演壇に立ったことがあります。
「私が専攻したカントという哲学者はこう言っている。
『善とは何か、悪とは何かを生涯かけて追求しても、我々はそれを手に入れることはできない。人間が手に入れることができるのは、善悪を決めていく基準だけだ。』
かつて日本の物差しによってこの戦いは善であり、アメリカの物差しによってこの戦いは悪であるとした。それは歴史が判断することだが、君たちが今求めているもの、真の善悪の基準、少しでも長い時間、少しでも広い地域において信奉していくことのできる基準は、そうたやすく手に入るものではないと思う。だからそういうものを生涯かけて手に入れるためにも、君たちは不安であるだろうけれども、地道な勉強を再開してくれないか。」
実にすばらしいアドバイスであったと思います。