行雲流水

仏教をテーマとした記事を掲載しています。

克己

2021年05月11日 | 法句経
無益な語句をたびたび語るよりも、聞いて心の静まる有益な語句をひとつ聞く方が優れている。(『法句経100』)愛語よく回天の力あり(道元禅師)優れた一言が人生を大きく好転させることがある

無益な語句よりなる詩が千あっても、聞いて心の静まる詩をほ一つ聞くほうがすぐれている。(『法句経101』)無益な語句よりなる詩を百もとなえるよりも、聞いて心の静まる詩を一つ聞くほうがすぐれている。(『法句経102』)涅槃経の雪山童子が命をかけて聞いた「諸行無常、是生滅法、生滅滅己、寂滅為楽」がまさにそれ

戦場で百万人に勝つよりも、ただひとつの自己に克つ者こそ、実に最上の勝利者である。(法句経103)他人と比べて得た自己肯定感は脆くて壊れやすい。克己心によって得られた誰とも比較できない自己肯定感は絶対的でゆるぎない。

自己に打ち勝つことは他の人々に勝つことよりもすぐれている。
常に自己をコントロールして落ち着きがある人の勝ち得た勝利を敗北に転ずることは神にもガンダルヴァ(天の伎楽神)にも、悪魔にも、梵天にも、(誰にも)できない。(法句経104 105)自分の都合のいいように解釈して生きたり、感情に任せて生きても何のいいこともない。

百年の間、月々千回づつ祭を営む人がいて、またその人が自己を修養した人を、一瞬でも供養するならば、その供養することの方が、百年祭を営むよりもすぐれている。(法句経106)仏の道は心を育てることが大切であって、儀礼や祭が主になるべきではない。宗教には思想性の強い宗教と儀礼的な宗教があるが、仏教は思想性の強い宗教であることがこれからもわかる。

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自我は小さいほうがいい

2021年05月07日 | 法句経
すでに人生の旅路を終え、憂いをはなれ、あらゆることがらにくつろいで、あらゆる束縛の絆をのがれた人には、悩みは存在しない。(中村元訳『法句経90』)主体的に生きることと自分勝手に生きることは全く逆の方向を向いている。自我が小さくなればこそ、主体的に生きることができる。

こころをとどめている人々は努めはげむ。かれらは住居を楽しまない。白鳥が池を立ち去るように、かれらはあの家、この家を捨てる。(中村元訳『法句経91』)4月は新しい生活が始まる。進学、転勤したら、前の生活に未練を残さず、新天地で精進しよう。

財を蓄えることなく、食物についてその本性を知り、その人々の解脱の境地は空にして無相であるならば、かれらの行く足跡は知り難い。空飛ぶ鳥の跡の知り難いように。(中村元訳『法句経92』)その人の汚れは消え失せ、食物をむさぼらず、その人の解脱の境地は空にして無相であるならば、かれの足跡は知り難い。空飛ぶ鳥の跡の知り難いように。(中村元訳『法句経93』)偏らない心、こだわらない心、とらわれない心、それが般若心経の空の心なり、広く広く、もっと広く

御者が馬をよく馴らしたように、おのが感官を静め、高ぶりをすて、汚れのなくなった人。このような境地にある人を神々でさえも羨む。(中村元訳『法句経94』)苦しみや悩みは自分の感情に支配されていることと、自分中心の考え方からくることがわかると、自分を小さくすれば苦しみや悩みも小さくなることがわかる。

大地のように逆らうことなく、門のしまりのように慎み深く、深い湖は汚れた泥がないように、そのような境地にある人には、もはや生死の世は断たれている(中村元訳『法句経95』)心が揺るぎなく、心が澄み渡っている人は輪廻から脱して行くということだが、これは難しい。

正しい知慧によって解脱して、やすらいに帰した人。そのような人の心は静かである。ことばが静かである。行ないも静かである。(中村元訳『法句経96』)何ものかを信ずることなく、ニルヴァーナを知り、生死の絆を絶ち善悪をなすによしなく、欲求を捨て去った人。かれこそ実に最上の人である。(『法句経97』)他人でも物事でも自分の思い通りにしようとするから苦しむのだ。思い通りにしようとしないことが安らぎの一歩。

仏教でいう「苦」は思い通りにならないことによるので、他人を支配したり思い通りにしようとすることは他人に「苦」を与えてしまうことになる。

村でも、林にせよ、低地にせよ、平地にせよ、聖者の住む土地は楽しい。(中村元訳『法句経98』)人のいない林は楽しい。世人の楽しまないところにおいて、愛着なき人々は楽しむであろう。かれらは快楽を求めないからである。(『法句経99』)仏教用語の「愛着」とは自分に都合のよい見方、考え方。「愛着」→「思い通りにならない」→「苦しみ」。「愛着」(自分の都合)が苦しみのもと。

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自我は小さいほうがいい

2021年05月07日 | 法句経
すでに人生の旅路を終え、憂いをはなれ、あらゆることがらにくつろいで、あらゆる束縛の絆をのがれた人には、悩みは存在しない。(中村元訳『法句経90』)主体的に生きることと自分勝手に生きることは全く逆の方向を向いている。自我が小さくなればこそ、主体的に生きることができる。

こころをとどめている人々は努めはげむ。かれらは住居を楽しまない。白鳥が池を立ち去るように、かれらはあの家、この家を捨てる。(中村元訳『法句経91』)4月は新しい生活が始まる。進学、転勤したら、前の生活に未練を残さず、新天地で精進しよう。

財を蓄えることなく、食物についてその本性を知り、その人々の解脱の境地は空にして無相であるならば、かれらの行く足跡は知り難い。空飛ぶ鳥の跡の知り難いように。(中村元訳『法句経92』)その人の汚れは消え失せ、食物をむさぼらず、その人の解脱の境地は空にして無相であるならば、かれの足跡は知り難い。空飛ぶ鳥の跡の知り難いように。(中村元訳『法句経93』)偏らない心、こだわらない心、とらわれない心、それが般若心経の空の心なり、広く広く、もっと広く

御者が馬をよく馴らしたように、おのが感官を静め、高ぶりをすて、汚れのなくなった人。このような境地にある人を神々でさえも羨む。(中村元訳『法句経94』)苦しみや悩みは自分の感情に支配されていることと、自分中心の考え方からくることがわかると、自分を小さくすれば苦しみや悩みも小さくなることがわかる。

大地のように逆らうことなく、門のしまりのように慎み深く、深い湖は汚れた泥がないように、そのような境地にある人には、もはや生死の世は断たれている(中村元訳『法句経95』)心が揺るぎなく、心が澄み渡っている人は輪廻から脱して行くということだが、これは難しい。

正しい知慧によって解脱して、やすらいに帰した人。そのような人の心は静かである。ことばが静かである。行ないも静かである。(中村元訳『法句経96』)何ものかを信ずることなく、ニルヴァーナを知り、生死の絆を絶ち善悪をなすによしなく、欲求を捨て去った人。かれこそ実に最上の人である。(『法句経97』)他人でも物事でも自分の思い通りにしようとするから苦しむのだ。思い通りにしようとしないことが安らぎの一歩。

仏教でいう「苦」は思い通りにならないことによるので、他人を支配したり思い通りにしようとすることは他人に「苦」を与えてしまうことになる。

村でも、林にせよ、低地にせよ、平地にせよ、聖者の住む土地は楽しい。(中村元訳『法句経98』)人のいない林は楽しい。世人の楽しまないところにおいて、愛着なき人々は楽しむであろう。かれらは快楽を求めないからである。(『法句経99』)仏教用語の「愛着」とは自分に都合のよい見方、考え方。「愛着」→「思い通りにならない」→「苦しみ」。「愛着」(自分の都合)が苦しみのもと。

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法灯明

2021年05月04日 | 法句経
水道をつくる人は水をみちびき、矢をつくる人は矢を矯め、大工は木材を矯め、賢者は自己をととのえる。(中村元訳『法句経80』)自分の思考を客観的に見つめ直そう。おかしなものに騙されないように。

一つの岩の塊が風に揺るがないように、賢者は非難と賞讃とに動じない。(中村元訳『法句経81』)他人の評価は気にしなくても、他人の助言や意見には素直に耳を傾けよう。

深い湖が、澄んで、清らかであるように、賢者は真理を聞いて、こころ清らかである。(中村元訳『法句経82』)南無阿弥陀仏

高尚な人々は、どこにいても、執着することが無い。快楽を欲してしゃべることが無い。楽しいことに遭っても、苦しいことに遭っても、賢者は動ずる色がない。(中村元訳『法句経83』)これは、ほとんどの人にはあてはまらないが、一つの目標ということで。

自分のためにも、他人のためにも、子を望んではならぬ。道にかなった行ないあり、明らかな知慧あり、真理にしたがっておれ。(中村元訳『法句経84』)政治家、宗教家、カリスマを求めない。神も求めない。自灯明 法灯明

人々は多いが、彼岸に達する人々は少ない。他の多くの人々はこなたの岸の上でさまよっている。(中村元訳『法句経85』) 真理が正しく説かれたときに、真理にしたがう人々は、渡りがたい死の領域を超えて、彼岸に至るであろう。(中村元訳『法句経86』)極楽往生は死ななくてもできる。南無阿弥陀仏

賢者は悪いことがらを捨てて、善いことがらを行なえ。家から出て、家の無い生活に入り、楽しみ難いことであるが、孤独のうちに、喜びをもとめよ。(中村元訳『法句経87』)諸悪莫作 衆善奉 自浄其意 是諸仏教 ちなみに、これは出家者に向けた言葉である

賢者は欲楽をすてて、無一物になり、心のけがれを去って、おのれを浄めよ。(中村元訳『法句経88』)覚りのよすがに心を正しくおさめ、執着なく貪りをすてるのを喜び、煩悩を滅ぼし尽くして輝く人は、現世において全く束縛から解きほごされている。(中村元訳『法句経89』)サルトルの思想と仏法の似て非なるところ。仏法は自我を小さく。


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