行雲流水

仏教をテーマとした記事を掲載しています。

坐禅と瞑想

2018年04月27日 | 仏の心
禅者には坐禅を瞑想の一種だと言うと嫌がる人がいますが、坐禅は禅の瞑想法だと思うのです。
結局は呼吸を整えて「今、ここ、自分」に集中することが、瞑想であり坐禅だと思うのです。瞑想の達人は人生の達人であり、自分にとって正しい人生を歩む人だと思うのです。道元禅師は何もならない坐禅をただひたすらしなさいと言いますが、実は何もならないことをひたすらやることが、何もなることだと気づくの坐禅であり、瞑想なのです。

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阿頼耶識とアカシックレコード

2018年04月24日 | 仏の心
阿頼耶識(あらやしき)は 

眼耳鼻舌身意の顕在意識の下にある潜在意識の一つです。

阿頼耶というのは、とてつもなく大きな蔵という意味で、

宇宙で起こった全てのことが記録されています。

阿頼耶識は全てのものと繋がっているので、瞑想で阿頼耶識に入ることで、

様々な情報を取りだすことができるのです。

阿頼耶識はまるでアカシックレコードです。

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平常心

2018年04月20日 | 仏の心
平常心とは、いつでも平静でいることでなく、その時々を一生懸命に生きて行くことです。
悲しい時は大いに悲しみ、嬉しい時は大いに喜び、人間らしく生きて行くことです。
悩みや悲しみ、苦しみがあるからこそ人間なのです。私は、そんな時におろおろせず、平気でいられる事が平常心だと思っていましたが、悩みや悲しみ苦しみに向き合って行くことが平常心だったのです。

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この世はウソだらけ

2018年04月17日 | 仏の心
聖人の仰せには、
「善悪の二つ、総じてもって存知せざるなり。そのゆえは、如来の御心に善しと思し召すほどに知りとおしたらばこそ、善きを知りたるにてもあらめ、如来の悪しと思し召すほどに知りとおしたらばこそ、悪しさを知りたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫・火宅無常の世界は、万のこと皆もってそらごと・たわごと・真実あることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」とこそ、仰せは候いしか。


親鸞聖人がおっしゃるには、「善悪の二つにつについて、ワシは何にも知らんよ。なしてかゆうと、如来様が良いと言われることを知り抜いてこそ、良いと言えるんじゃ。如来様が悪いと言われるところまで知り抜いて、悪いと言えるんじゃ。しかし、ワシらあ、凡夫なんじゃけえ、そして、この世は無常な火宅の世界なんじゃけえ、みんなウソだらけ、真実なんぞないんじゃ。念仏だけが真実なんじゃよ。

親鸞聖人がおっしゃるように世間なんぞは、ウソで塗り固められちょるんじゃよ。力をもっておる者が悪いことをしても、ないことにされてしまう。それに対して力のないものは無実の罪をきせられてしまう。黒のものが白になり、白のものが黒になってしまう。ウソばかりのこの世の中において、念仏だけが、坐禅だけが真実なんじゃよ。



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あの岸 この岸

2018年04月13日 | 仏の心
ふるさとを離れて生活している人に言わせれば、
今住んでいるところにいれば、ふるさとが懐かしくなり、
ふるさとに帰れば、やはり今住んでいるところがいいと言います。

橋のない大きな川の岸べに住んでいる人が、
「川の向こうはどうなっているのだろう?桃源郷があるに違いない。」
と思っています。
その人は、ある日、船で対岸に渡ってみました。
すると、自分のいるところと同じような場所でした。
「やはり、自分の家が一番だ」

結局は、自分が今、いる場所が一番なのです。今、この場所で精一杯頑張りましょうと言うのが、お彼岸のお話です。

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