行雲流水

仏教をテーマとした記事を掲載しています。

言葉の裏にあるもの

2010年02月26日 | 禅の心
禅、特に臨済禅では、公案という問題を使って、弟子を指導していきます。

その公案の中の様々な言葉や、先達の激しい言葉に誤解をすることもあると思います。

例えば、「生き埋めにしろ」とか「仏にあいては仏を殺し」とかです。

それらの言葉をストレートに受け取れば、禅とは激しいものだというイメージを与えることと思います。

しかし、これはあくまでも、穏やかな心を得るための一つの方便に過ぎません。

また、禅では「不立文字」とも言います。文字がないのが禅ではありません。

真理は言葉では簡単に言い表せないと言うことです。

その言い表せない真理を、多くの言葉を用いて言い表そうとしているのが、禅でもあります。


少し、話は変わりますが、愛情というのは、時として厳しさでもって表現されることもあります。

親がわが子を叱るのは良い例です。

友人関係であっても、恋人関係であっても然りです。

愛情を背景にして、人を叱るのは難しいことです。

一番よくない叱り方は、自分の感情にまかせて叱ることです。

よい指導者とは、常に愛情をもって人を叱ることができる人です。

叱られた側も、伝わってくる愛情を感じ「この人についていこう」と思うのです。

尊敬される人とは、感情を抑えて真心をもって人を諭す事のできる人です。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

雑感

2010年02月23日 | 禅の心
今日は、短い文章に雑感をまとめてみました。

○罪を犯さない、法律には触れていない、そういう人がいい人であるとは限らない。

○人の事を批難する前に、自分が人を批難できる人間であるかを点検してみよう。

○たちの悪い悪人とは、自分のことを善人と信じて疑わない人である。

○自分はまともだと信じて疑わない人が、案外問題を抱えていたりするものである。

○禅とは、強く生きるよりも優しく生きるためのものである。

○法華経は、肯定の肯定だが、般若心経は、否定の否定つまり二重否定なので肯定である。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

無功徳

2010年02月19日 | 禅の心
鳥取市にて

神社やお寺にお参りする人を善男善女と言います。

早い話が、信心深い人々という意味です。

しかし、それを人に誉めてもらおうと思ってするのであれば、意味がないというのです。

政治家やプロ野球の選手や監督が、参禅しているところが紹介されることがあります。

私は、黙って参禅すればいいと思うのです。

テレビや新聞に、「私は坐禅していますよ。」

と言わんばかりにアピールすることはないのです。

世間から誉めてもらうために参禅することはないのです。

達磨大師は、中国の梁という国の武帝の帰依を受けました。

武帝は、「私は、寺を建てたり、お坊さんを育成してきた。どんな功徳があるだろうか。」と言います。

達磨大師の答えは、「功徳なんてありませんよ。」

禅は、ひっそりと、目立たなくするものだというわけです。

信仰に限らず、普段から、良いことは目立たなく行うことも大事です。

「陰徳には陽報あり」です。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

不殺生戒

2010年02月16日 | 禅の心
私としては好きな戦国武将はいないというのが本当のところです。

いくら美化されていても、戦国時代の武将は多かれ少なかれ、殺人集団の一員だからです。

人によっては、戦国時代と現代では価値観が違うと言うかもしれません。

しかし、カントの普遍的妥当性という言葉を借りるなら、人を殺すことは絶対的な悪だと思うのです。

織田信長のような凶悪な殺人鬼は論外としても、人を殺す事を是としてはいけないと思うのです。

かつて自分は織田信長だという総理大臣がいました。

もちろん彼は、殺人鬼としての信長だというのではなく、理想のリーダーとしての信長だというのでしょう。

しかし信長のリーダー性は残忍性に裏付けられたものだと思うのです。

広島、長崎に原子爆弾を落としたアメリカ人はアメリカでは英雄とされているそうですが、罪のない沢山の人を殺しておいて、何が英雄だと思うのです。

日本史上、戦国時代と明治時代は重要な意味のある時代なのですが、私としては嫌いな時代です。

カンボジアのポルポトや中国の毛沢東はたくさんの人を殺していますが、それを批難する声は大きいです。

しかし、同じような織田信長を英雄視するのはいかがなものかといつも疑問に思うのです。

罪のない人を殺すことが、正当化されたり正義であったりしてはならないと思います。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

こころ穏やかに生きる

2010年02月12日 | 禅の心
若い弟子が、「礼儀のなっていないやつらに一喝してやりました」

と言っていました。

「何があったのかは知らんが、まあそう怒りなさんな。」

となだめると、

「世の中厳しさが足りないのです。もっと厳しくしなければ。」

と、おさまる様子がありません。

私は、確かに世の中を正すことは大切なことだと思っています。

しかし、これも方法次第だと思います。


私は、小学校から高校まで訪問する機会が多いのですが、

校長、教頭が厳しいところが安定しているとは限らないことがわかりました。

むしろ、校長が厳格すぎて先生方が萎縮しているような学校は、荒れていることが多いような気さえします。

ある、キリスト教系の学校は、校長、教頭をはじめとして、先生方がいたって穏やかです。

実は、この学校、全国からいろいろな事情があって来ている子供たちも多いのです。

しかし、荒れているどころか、子供たちは極めて穏やかに生活しています。

先生方は子供たちに穏やかに接しつつも、押さえるべきところはきちんと押さえておられるのが

よくわかります。

子供たちは、怒鳴ったり、激しく叱責するだけでは、かえって反発して、逆効果になることがあります。

このキリスト教の学校の先生方は、自ら精神的に安定していて、どんな時にも、冷静に穏やかに対応しておられるのがいいのです。

弟子のように、一喝するのがいいわけではありません。

北風と太陽の話の太陽のように、穏やかに生きていきたいものです。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする