行雲流水

仏教をテーマとした記事を掲載しています。

和敬清寂

2010年05月28日 | 禅の心
茶の湯の言葉です。禅者も、書家も茶人も、常に心穏やかに生活しなければなりません。このことには、異論があるかもしれませんが、怒りや憎しみを乗り越えるのが、禅、書道、茶道だと思うからです。人間、生きていれば、腹の立つことが多いものです。しかし、一呼吸置いて心を鎮めることは大切です。
「和敬清寂」は茶道でよく使われることばです。
「和」は和みであり、和え物(あえもの)であり、平和です。いろんな個性の人が小さな茶室で和む。そうすると「敬」が出てきます。お互いに敬い合い、異なった個性や意見も尊重し合うことができるのです。自民党の人も民主党の人も共産党の人も、同じ人間として敬い合う。思想が異なるから、敵なのでないのが、「敬」です。人と人の間の心の垣根を取り払うのが「敬」です。
お互いに敬い合えば、心が清々しくなってきます。それが「清」です。
心が清々しくなると、欲望や悩みを整理することができます。それが「寂」です。
茶道は金持ちの道楽であってはなりません。自分の心を整理し、穏やかに生きることが茶道や書道の目指すところなのです。


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観音様と「生きる」

2010年05月25日 | 禅の心
「死にたい」と言っている人に

「生きていればいいことがあるよ。」

と答えることが、とても残酷なことである場合があります。

生きていてもいいことがないから、「死にたい」と言っているのですから。

そんなとき、観音様は、「私も苦しいのですよ」

と、一緒に泣いて下さいます。

観音様は、

男の前では男に、女の前では女に、赤子の前では赤子の姿で、年寄りの前では年寄りになって、喜んだり、悲しんだりして下さるのです。

時には、人を励ますことも大切かもしれません。しかし励ますだけでは決して救われません。

「生きろ」ではなく「一緒に生きましょう」が観音様の心なのです。

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舌切り雀

2010年05月21日 | 禅の心
石見の国の浜田のずっと山奥に、市木ちゅうとこがあるんじゃが、

そこに、おじいさんとおばあさんが住んどりんさるんよぉ。

おじいさんとおばあさんのところにな、広島から、ずず子ちゅう五歳にな

る孫娘が遊びに来とったんよぉ。

おばあさんがの、洗濯もんに糊つけしよう思うて、糊をこしらえたんよ。

おばあさんが、目を離したすきに、すず子が何やら面白そうなものがある

思うて、糊を粘土みたいにして、あそんどったんじゃと。

それを見たばあさんは、「これ!なんちゅうことをしょううるん!

わしがせっかく、こしらえたものを」

ちゅうて、可愛そうに、すず子のほっぺをひっぱたいたんじゃと。

すず子は、ばあさんが恐くなって、お母さんと一緒に、広島に帰ってしもうたんよ。

じいさんが、帰ってくると、すず子がおらんもんじゃけぇ、

「ばあさん、すず子はどがぁしたんじゃ?」

「広島にかえったけえ」

それを聞いた、じいさんは、寂しゅうなって、広島にすず子を追いかけていったんじゃと。

じいさんとばあさんの娘夫婦は、広島で幸せに暮らしとったんよ。

すず子は「おじいさん、ようきちゃんさった」

と言って、おじいさんはしばらく広島におったんじゃと。

それでもおじいさんは市木にかえらにゃいけんのんじゃけ、帰ろうとしょうると、すず子が、

「これ、わたしが書いたおじいさんの顔よ」と言って、一枚の絵をおじいさんに渡したんよ。

おじいさんは、たいそう喜んでの、涙を流して

「これは、すず子が一生懸命描いてくれた宝物じゃけ、大事にするけぇの」

と言って、帰っていったんよ。

おじいさんが、帰って、おばあさんに、「ええもん、もろうたよ」

ちゅうて言うと、

おばあさんは、「なんじゃい!この下手くそな絵!化けもんじゃないか」と言ったんよ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

同じ一枚の絵でも、人によって、宝物にもなるし、オバケにもなるのです。確かに、すず子の絵は、下手くそで、オバケのような顔だったのかもしてません。しかし、孫娘が愛おしいおじいさんにとっては何者にも代え難い宝物なのです。

舌切り雀のお話しでは、スズメは、大きなつづらにも小さなつづらにも同じものを入れていたのかもしれません。しかし、それを見る人の心によって宝物にも、オバケにもなるのです。
自分の幸せは、自分の心が決めているのです。

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あらたふと 青葉若葉の 日の光

2010年05月18日 | 禅の心
松尾芭蕉が、今の時期に、日光東照宮に詣でたときの句です。

あらたふと 青葉若葉の 日の光

5月は、新緑の季節で、自然界はエネルギーに満ちあふれています。

芭蕉は、自然の景観と一体になる心境を体得したのでしょう。

それを表した、芭蕉の秀逸な句の一つです。

5月は、新緑の季節とは裏腹に、人間にとって心身の不調をきたしやすい頃だとも言われています。

新しい生活の疲れが出てきたり、慣れない仕事にストレスがたまってきたりするのです。

しかし、それを癒してくれるのが自然です。

特に現代人は、自然とかけ離れた生活をしがちなので、身体的、精神的にまいってしまいやすくなっています。

そんな時に自然の中で遊ぶと、疲れやストレスもどこかへ行ってしまうものです。

自然は最良のお医者さんであり、カウンセラーでもあります。

日本人は、四季の移ろっていく風景の中で、自分を見つめてきました。

ちょっと疲れたなと思ったら、大自然の風景に目をやってみましょう。


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自然に学ぶ

2010年05月14日 | 禅の心
泣露千般草

吟風一様松

寒山のあまりにも美しい詩です。寒山は中国の唐の時代のお坊さんで、
拾得というお坊さんと仲が良く、寒山も拾得もいつもニヤリと笑った姿で絵に描かれています。
子供のように無邪気で、日本では一休さんのような存在と言っていいと思います。
子供のように無邪気で明るい人には二通りあります。
全く精神的に成長していなくて、子供のままの無邪気さをもった持った人。もう一つは悩み、苦労をして辛酸をなめたことを乗り越えた明るさをもった人です。寒山拾得や一休さんの明るさ、無邪気さは、後者の苦難を乗り越えたものであることは言うまでもありません。
鉄でもたたかれて、きたえられて強くなります。人間もそうだと思います。強い人間とは、しなやかさ、優しさをもった人です。鉄がいくら固くても、しなやかでなければ、もろく、割れやすくなります。

さて、この寒山の詩ですが、ちょうど今頃の季節の様子でしょうか。千草が露の重みでうなだれているのを、千草が泣いているようだと表現し、風になびいている松の枝の音が、松が吟じているようだと表現しています。
あまりにも美しい光景だと思います。
私は自然を鑑賞するものではないと思っています。自然は自分そのものであり、自然の光景は自分の心の中の姿だからです。美しいものを素直に美しいと思うのは、自分の心のはたらきだからです。

兵庫県豊岡市の蘇武岳の自然の姿はまさに寒山詩の光景でした。自然は自分自身なのです

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