行雲流水

仏教をテーマとした記事を掲載しています。

けんかしないのが仏道

2016年10月28日 | 仏の心
若い人に「情けは人のためならず」といえば、他人に情けをかけるのはその人の自助努力をそぐのでためにならないと理解し、

百丈禅師の「一日なさざれば一日食らわず」を言えば、「働かざる者食うべからず」と理解します。

仏道は自分に対する戒めが大事であり、他人を攻撃することをよしとしません。

現代の冷たさには悲しみすら覚えます。

傲慢は自分の中の敵

2016年10月25日 | 仏の心
『正法眼蔵随聞記』の第二に先人の語録を読んでいた道元禅師が宋の国の僧侶に、「そんなもの読んでどうするのだ」と言われたことが書いてあります。

一日示して云く、吾れ在宋の時禅院にして古人の語録を見し時、ある西川の僧道者にてありしが、我に問て云く、語録を見てなにの用ぞ。答て云く、古人の行李を知ん。

僧の云く、何の用ぞ。云く郷里にかへりて人を化せん。僧の云く、なにの用ぞ。云く利生のためなり。僧の云く、畢竟じて何の用ぞと。予後に此の理を案ずるに、

語録公案等を見て古人の行履をも知り、あるひは迷者のために説き聴かしめん、皆な是れ自行化他のために畢竟じて無用なり。只管打坐して大事をあきらめなば、

後には一字を知らずとも、他に開示んに用ひつくすベからず。故に彼の僧、畢竟じてなにの用ぞとは云ひける。是れ真実の道理なりと思ひて、其の後語録等を見ることをやめて、

一向に打坐して大事を明らめ得たり。




仏の教えは知識ではないということを言いたいのだと思います。また、他人の言行は自分の言行ではないので、あくまでも個人がどう考えるかが大事だというわけです。

自分はこんなに物知りなんだと自慢げに知識をひけらかすのは恥ずかしいことなのだと思います。知っていても慎ましやかにしているのがいいと思います。自分に酔えば、酔いから醒めて苦しむだけです。

親鸞聖人も自分のことを愚禿と呼ばれました。慢心は自分の心の中の敵です。知識をもっていることにとらわれず、謙虚に生きていきたいものです。


世間はたいぎい

2016年10月21日 | 禅の心
回首七十有余年     首(こうべ)を回せば七十有余年 
人間是非飽看破     人間の是非看破するに飽く 
往来幽深夜雪       往来の跡幽(かす)かなり深夜の雪 
一炷線香古匆下     一炷の線香古匆(こそう)の下


これは良寛さんの『草庵雪夜作』です。

世間様が正しいこと正しくないことについて、ああでもないこうでもないと議論しているのに飽きたと良寛さんは言うのです。

私は道徳というものが好きではありません。

良い悪いなどというものは時代によって変わりますし、文化によっても変わるからです。

一つのものさしによって人を私的に裁くことには抵抗があります。

答のないこと、結論の出るはずのないことで長々と議論していることに飽きてきました。

良寛さんも同じ思いだったのでしょうか。






親切に

2016年10月18日 | 仏の心
インターネットでは人々の恨み辛みであふりかえっています。

現代という時代は表面的には治安がよくて安心して暮らせる時代のようですが、

一方で人間の本来の汚い部分がたくさん出てくる時代でもあるような気がします。

意地悪な人が遠慮なく意地悪している時代のようにも見えます。

しかし、意地悪な人はいずれしっぺ返しを受けることになります。

しっぺ返しをするのは誰でもありません。

因果応報というものです。

誰にでもある意地悪な心を点検し、

他人に親切に生きていきたいものです。

怨みを超えよ

2016年10月14日 | 法句経
怨みをいだく人々の中に

たのしく

怨みなく

住まんかな

怨みごころの人々の中に

つゆ怨みなく

住まんかな


(法句経197番)


心にいたみもつ人々の中に

たのしく

心いたみなく

住まんかな

心いたみ 嘆く人々の中に

つゆ心いたみなく

住まんかな


(法句経198番)



怨みをいつまでも抱いていても

何にもなりません。

法然上人は子供の頃に地元の豪族に父親を殺されてしまいます。

父親は死ぬ前に法然上人に「怨みを怨みで答えてはならない。怨みを超えよ」と言いました。

復讐のやりあいは、どこまでも続いてしまいます。

復讐は天に任せて法然上人は比叡山に上がり、のちに浄土宗の開祖となったのです。

怨みを超えることが大切です。