『正法眼蔵随聞記』の第二に先人の語録を読んでいた道元禅師が宋の国の僧侶に、「そんなもの読んでどうするのだ」と言われたことが書いてあります。
一日示して云く、吾れ在宋の時禅院にして古人の語録を見し時、ある西川の僧道者にてありしが、我に問て云く、語録を見てなにの用ぞ。答て云く、古人の行李を知ん。
僧の云く、何の用ぞ。云く郷里にかへりて人を化せん。僧の云く、なにの用ぞ。云く利生のためなり。僧の云く、畢竟じて何の用ぞと。予後に此の理を案ずるに、
語録公案等を見て古人の行履をも知り、あるひは迷者のために説き聴かしめん、皆な是れ自行化他のために畢竟じて無用なり。只管打坐して大事をあきらめなば、
後には一字を知らずとも、他に開示んに用ひつくすベからず。故に彼の僧、畢竟じてなにの用ぞとは云ひける。是れ真実の道理なりと思ひて、其の後語録等を見ることをやめて、
一向に打坐して大事を明らめ得たり。
仏の教えは知識ではないということを言いたいのだと思います。また、他人の言行は自分の言行ではないので、あくまでも個人がどう考えるかが大事だというわけです。
自分はこんなに物知りなんだと自慢げに知識をひけらかすのは恥ずかしいことなのだと思います。知っていても慎ましやかにしているのがいいと思います。自分に酔えば、酔いから醒めて苦しむだけです。
親鸞聖人も自分のことを愚禿と呼ばれました。慢心は自分の心の中の敵です。知識をもっていることにとらわれず、謙虚に生きていきたいものです。