行雲流水

仏教をテーマとした記事を掲載しています。

現代版徒然草

2013年10月29日 | 禅の心
○感動だけで動く人は危険である。

・自分の頭で何も考えずに、感動だけで動いていると、人にいいように操られてしまう。

・前にぶら下げられたニンジンにつられて走る馬のようなものである。

・そういう人は、悪いやつにとって良いカモなのだ。

○「感謝」を連発するな。

・本当に感謝しているなら、「ありがとうございました」の一言でよい。

・「感謝」していますを連発すると、かえってうさんくさくなる。

○とにかく、まわりに流されないこと。

・自分の人生を自分で生きるためには、自分の頭で考えて、自分の五感をフルに使って行動することじゃ。

舌切り雀の真実

2013年10月25日 | 禅の心
山奥の村に、おじいさんとおばあさんが住んでいました。心のやさしいおじいさんは、村の子供たちと遊ぶのが何よりの楽しみでした。子供たちは、大好きなおじいさんにプレゼントをしようと考えました。
「おじいさん、大きな箱と小さな箱のプレゼントを用意したけえ、どちらでもいいので持って帰りんさい。」
おじいさんは
「ワシは重たいのはよう持たんけえ、小さい方をもろうて帰るよ。」
おじいさんが家にプレゼントの箱を持って帰って、開けてみると、子供たちが一生懸命作った絵やら粘土の作品が入っていました。おじいさんはとても嬉しくなりました。
 おばあさんは、おじいさんが大喜びしているのを見て、
「どがあしたんかい?」
と聞くので、おじいさんは村の子供たちからプレゼントをもらったことを話しました。
おばあさんは
「そんなら、ワシも子供らと遊んでプレゼントをもろうてこようないの。」
と言って、子供たちのところへ行きました。
「こらあ、子供たちよ、ワシが遊びに来てやったぞい。ワシにも帰りにプレゼントをおくれ。」
おばあさんも、子供たちからプレゼントをもらうことになりました。
「おばあさん、大きな箱と小さな箱のプレゼントを用意したけえ、どちらでもいいので持って帰りんさい。」
おばあさんは、
「ワシはおじいさんとは違ごうて、元気じゃけ、大きいのをもろうて帰るけえ。」
おばあさんは、大きな箱を家に持って帰ることにしました。
しかし、箱が重くて家に着くまでに休みしました。
「何が入っとるんじゃろう?開けてみよう。」
と言って開けてみました。
おばあさんは、「何じゃこのガラクタは・・・」と言って、プレゼントを捨ててしまいました。

さて、おじいさんと、おばあさんがもらった箱には何が入っていたのでしょう。
実は、同じように子供たちが一生懸命つくってくれた、絵や作品が入っていたのです。
同じものでも、おじいさんは子供たちの純粋な気持ちをうれしく思い、おばあさんは、子供のつくったものなど値打ちのないものだと思っていたのです。
幸せや喜びは自分の心が作り出しているというお話でした。

東洋の落ち着き志向・西洋の生きがい志向

2013年10月22日 | 禅の心
内山興正老師の言葉です。



さてこのように仏教も基督教も一(ひと)ひっくるめにして「御いのち抄」を書くつもりになったら,旧に私のうちに,「東洋の文化は落着き志向」,これに対して「西洋の文化は生き甲斐志向」ということがはっきり浮かび上がってきました。

明治以降の日本人の人生観は,明らかに「東洋的落着き志向」から「西洋的生き甲斐志向」に急転換したといえましょう。しかもその際,この西洋的生き甲斐の背景地盤となってきている基督教については全く学ぶことはく,バッサリそれを切り捨てたまま,西洋的生き甲斐志向のみを取り入れたのでした。「大東亜恒久平和のため」という生き甲斐は,基督教的「神の国」や「共産主義社会実現のため」を「大東亜恒久平和」に書き変えただけでした。そしてこの中途半端な書き換えがみごと空中分解してしまった戦後は,もう単純明快に「欲望的生き甲斐」一本に絞り上げてしまっています。

ところがじつはこの「欲望的生き甲斐」について,聖書では,「世と世の欲は過ぎゆく」とあり,又「亡び失する獣の如し」ともあります。又仏典では,この「欲望的生き甲斐」について「煩悩」と呼ぶのであり,あるいは「遍計所執性」とも呼んでいます。一口にいって,これは人生観としては,東洋でも西洋でも,近世まではもっとも低級下品な生き甲斐,価値観とされてきたものです。いまの日本人がこれを低級下品と思わず,いかにも進んだ人生観,価値観と思うとしたら,それは日本人そのものが低級下品になってしまったからです。



 明治維新以降、日本人は本当の心のよりどころを失ってしまって、いいことも悪いことも西洋文明の影響を受けるようになりました。そして、現代は物欲、金銭欲にかりたてられています。お金が幸せの尺度だとさえ言われています。内山老師はこれを「欲望的生きがい」と呼ばれ、低級下品だと通説に批判されるのです。

キリスト教と仏教

2013年10月18日 | 禅の心
○キリスト教は砂漠の宗教なんじゃ。
○砂漠では自然は戦うものと決まっておる。
○キリスト教の影響を受けておる西洋人に言わせれば、自然は克服するものじゃと考えておる。
○じゃから、山は登って征服するものなのじゃ。
○仏教は湿潤気候の宗教なんじゃ。
○自然は恵みなんじゃ。
○日本人をはじめ、東洋人は自然は恵みの神じゃと考えておる。
○人間は自然の一部と考えて、自然は克服するものではなく順応するものと考えるんじゃ。
○日本人に、仏教がすんなりと受け入れられたのは、八百万の神々が自然そのものじゃからじゃ。
○キリスト教でも仏教でも信じるのは自由じゃが、日本人には仏教が合うとると思うんじゃが。

純粋な心

2013年10月15日 | 禅の心
○生まれたばかりの赤ちゃんは純粋そのものじゃ。

○子供は年齢を重ねるにしたがって、欲望というくすみに覆われてくるのじゃ。

○大人になれば、お金、地位、名誉といったものをほしがり、心がくもってしまうのじゃ。

○人間にとって、欲求は必要であるが、必要以上にそれを追求するちころに悲劇が生じるのじゃ。

○赤ちゃんのような純粋な心を取り戻すのが、禅であり、瞑想である。

○自分の中の純粋な心を仏心と呼んでもいいぞ。

○仏心を知ることが安心なんじゃ。