行雲流水

仏教をテーマとした記事を掲載しています。

君子の交わり

2010年10月29日 | 禅の心
">《君子の交わりは水の如く淡く、小人の交わりは甘きこと醴(甘酒)の如し。》


「荘子」の中の一節です。
現代人は人間関係の築き方が下手だと言われていますが、人間関係が希薄だというよりも、人との間の取り方が下手なのでしょう。
人間は、人の間と書きますが、間が大切な動物です。人と人との近過ぎもせず、離れ過ぎもしない程よい「間」です。
荘子は、よくできた人の付き合い方は水のように、あっさりしている。まだ未熟な人の付き合い方は甘酒のようにベトベトしていると言っています。まさにそうだと思います。


自分を苦しめるもの

2010年10月26日 | 禅の心
戦後の教育の中で、人々の「自我」を育てることが重視されてきました。それはそれで意味のあることだったのかもしれません。しかし、この自我というものが私たち自身を根源になっているのも確かです。
  「俺が、私が・・・」どうにもならないことを、何とかしようとするところに苦しみがあるのです。「あれも欲しい、これも欲しい。」と、ものが手に入らないことに苦しむのです。自分の考え方が正しくて、まわりはすべて間違っているという傲慢な心によって、人間関係がぎくしゃくするのです。
 物が欲しい、権力を持ちたいみんな必要な欲望ですが、大きくなりすぎると苦しみのもとになるだけです。
 人間、生きていくためには自我は必要なものですし、経済が発展していくためには自我が必要だったのかもしれません。しかし、自我が大きくふくらみ過ぎると、苦しみの元になります。
 「自我」(ego)は抑えて「自己」(own,self)を見つめるのが禅の目的なのです。

権力者の心構え

2010年10月22日 | 禅の心
江戸時代の禅僧である、沢庵禅師は、紫衣事件により、出羽国(山形県)上ノ山荘に流刑となりました。
 そこの城主、土岐頼行から、「為政者の心構えとして、大切なことは何か」と、尋ねられました。沢庵禅師は「上中下」と答えました。「上」は為政者、権力者、「下」は民衆です。「中」は中間の階級ではなく、「口」に縦線一本。つまり、口を通して、権力者と民衆を結ぶ、コミニュケーションを表します。
つまり、権力者は、きちんと民衆の意見に耳を傾け、民衆が自由に意見を述べることができるようにすることです。このことは、政治の世界に限らず、職場でも家庭でも通ずることです。お互いの気持ちを伝え合って、理解することは、社会生活の基本です。



兵庫県豊岡市

沢庵禅師は、この出石で生まれ育ちました。


戦争は嫌だ

2010年10月19日 | 禅の心
一事起則一害生。
故天下常以無事為福。
読前人詩云、勧君莫話封候事、一将功成万骨枯。
又云、天下常令万事平、匣中不惜千年死。
雖有雄心猛気、不覚化為氷霰矣。



一事(いちじ)起(お)これば一害(いちがい)生(しょう)ず。
故(ゆえ)に天下(てんか)は常(つね)に無事を以(もっ)て福(ふく)と為(な)す。
前人(ぜんじん)の詩(し)を読(よ)むに、云(いわ)く「君(きみ)に勧(すす)む封候(ほうこう)の事(こと)を語(かた)ること莫(なか)れ、一将(いっしょう)功成(こうなり)りて万骨(ばんこつ)枯(か)る」。
又(ま)た云(い)く、「天下(てんか)常(つね)に万事(ばんじ)をして平(たい)らかならしむれば、匣中(こうちゅう)に千年(せんねん)死(し)するを惜(お)しまず」。
雄心(ゆうしん)猛気(もうき)有(あ)りと雖(いえど)も、覚(おぼ)えず化(か)して氷霰(ひょうさん)と為(な)る。



何か一つ出来事があれば、一つの弊害が生れる。
だから、この世は、何事も起きないことを良しとしてきた。
昔の人の詩を読むと、「君、立身出世の話はしないでくれ。何故なら、一人の将軍の功績の影では膨大な兵士が犠牲となり、戦場で朽ち果てているからだ」
また、「天下泰平が実現できるなら、箱の中で千年も使われなくても、少しも悔むことはない(武将が自分を刀に準えたのだろう)」
(この弁からすれば)勇猛果敢な心があっても、氷やあられのように、知らない内に消えてしまう。
つまり、百戦錬磨の将軍でさえ、悲惨な現実を見続けていれば、戦意は消失し、何事も無い事が一番だと悟るものなのだ。
言い換えれば、達人は、禅語にいう「無事是貴人」、自然に手を加えないことが貴い事、ということを心に銘じておくべきだだろう。

平和な時代が続くと、平和の有り難さを忘れるものです。江戸時代の元和年間に長く続いた戦乱の世が終わり、幕末まで、平和な時代が続いたわけですが、血気盛んな若者の中には、戦いを望む者もいたわけです。
私は、明治維新というのは、いいようには評価できません。なぜなら、日本が軍国主義に向かって行くきっかけになったからです。
現代も、明治維新前に似たところがあって、平和の有り難さを忘れかけているところには憂慮しなければなりません。

流されない

2010年10月15日 | 禅の心
笙歌正濃処、便自払衣長往、羨達人撒手懸崕。
更漏已残時、猶然夜行不休、咲俗士沈身苦海。


笙歌(しょうか)正(まさ)に濃(こま)やか処(ところ)、便(すなわ)ち自(みずか)ら衣(ころも)を払(はら)って長(なが)く往(ゆ)く。
達人(たつじん)の手(て)を懸崕(けんがい)に撒(さん)するを羨(うらや)む。
更漏(こうろう)已(すで)に残(のこ)る時(とき)、猶然(ゆうぜん)として夜(よる)行(ゆ)きて休(やす)まず、俗士(ぞくし)の身(み)を苦海(くかい)に沈(しず)むるを咲(わら)う。


音楽や歌声が正に絶頂にある時、席を立ち振り返りもしないで帰ってしまうのは、達人が手放しで断崖絶壁を歩くようで羨ましい。
夜も更けて水時計の水が無くなったにも関わらず、悠然として夜遊びを止めないのは、俗人が身を落として滅びるように滑稽である。
つまり、達人は何時でも何処でも主体的であり、自信に満ちた滅り張りのある行動をするが、俗人は付き合いと称するように、客体的で自立心が無くズルズルとするから身を持ち崩すと言っている。
言換えれば、達人は其の人生の完成度を増し続ける人であり、俗人は其の人生を破壊し続ける人だと言える。



日本人は、つきあいを大事にするのですが、ついつい午前様になってしまって、体調を崩したり、無駄遣いをしたりするものです。職場のつきあいも大事ですが、早く家に帰って、家族と食事をし、語り合うのも大切なのです。