行雲流水

仏教をテーマとした記事を掲載しています。

自分自身の戒めとして

2021年01月29日 | 法句経
「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した」という思いをいだく人には、怨みはついに息(や)むことがない。

「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した」という思いをいだかない人には、ついに怨みが息(や)む。


(中村元訳 法句経)

これで誤解されては困るのですが、他人に「恨みをもつな」というのは酷な話です。あくまでも自分自身に対する戒めなのです。

備忘録

2021年01月26日 | 仏の心
○仏法は絶対者、真理、真実を求めるよりも、常に問い続けることに意味がある。

○法句経(ダンマパダ)を山田無文老師などは「真理の言葉」と言われているが、私は「問題提起の言葉」と受けとめている。真理や真実は言葉でなかなかわかるものではないと思うからだ。

○お坊さんでなければ悟ったり何かの境地を得ることはどうでもいい。釈尊の言葉が正しくものを見て考え、よりよく生きるヒントになればいい。



縁起ということ

2021年01月22日 | 法句経
(1)ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも汚れた心で話したり行なったりするならば、苦しみはその人につき従う。——車をひく(牛)の足跡に車輪がついて行くように。

(2)ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも清らかな心で話したり行なったりするならば、楽しみはその人につき従う。——影がそのからだから離れないように。


(中村元先生訳)

仏教は唯物論的な面と観念論的な面のある宗教だと思います。そもそも唯物論とか観念論という風に分けて考えることは仏教的ではないのですが、あえて言えばということで・・・。
縁起という言葉がありますが、私たちの人生は神様などの絶対者の意思によって動いているのではなく「縁」によって動いているのです。
ここでは心という言葉を用いていますが、心を縁という言葉に置き換えても良いかと思います。


恨みをもったまま生きていくには

2021年01月19日 | 仏の心
写真は岡山県久米南町の誕生寺内にある浄土院六角堂



犯罪被害者や遺族の方のお話を聞くと、「恨みなんて忘れなさい」などと言うのはさらに被害者の方に被害を与えてしまうことになります。「恨みを忘れなさい」ほど残酷な言葉はないのです。差別や犯罪の被害者の方にも落ち度があったのではないかというのも二次被害を与えることになるのです。
法然上人はまさに犯罪被害者の遺族でした。父親を殺された恨みはそう簡単に消えることはなかったのではないでしょうか。さらに法然上人は流刑にもあっています。法然上人は人生の苦難を念仏に集約していったのではないでしょうか。私はだれかをリスペクトすることはありませんが、法然上人には何かと自分に重なるものを感じています。恨みや憎しみにどう向き合うか法然上人に学んでいきたいと思っています。
念仏の機は、ただ生まれつきのままにて、念仏をば申すなり。智者は智者にして申して生まれ、愚者は愚者にて申して生まる。道心ある人も申して生まれ、道心なき人も申して生まる。乃至富貴のものも、貧賤のものも、慈悲なきものも、欲ふかきものも、腹あしきものも、本願の不思議にて、念仏だにも申せば、いづれもみな往生するなり。念仏の一願に万機をおさめておこし給える本願なり。ただこざかしく機の沙汰をばせずして、ねんごろに念仏だにも申せば、みなことごとく往生するなり。(法然上人)


生を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり

2021年01月15日 | 道元・正法眼蔵・曹洞宗
誰も死ぬ確率は100パーセント。誰にも平等に訪れるのが死。
死を考えるなど縁起でもないと言いますが、死について考えることにより充実した人生を送れると思うのです。仏法は死んだらそれまでというニヒリズムではありません。死は人生の一大仕事だと思うようになりました。遠藤周作の言葉に「生きざまなどという言葉はない。死に様というのが正しい」というのがありましたが、その通りだと思います。

仏教を唯物論的にとらえる人は「死んだらおしまい」と考えます。これを「断見」といいます。反対に肉体は滅んでも魂は生き続けるという考え方を「常見」といいます。私は釈尊の教えは唯物論とか観念論、断見、常見など二項対立で考えないものだと思っています。唯物論とか観念論を超えているのが釈尊の教えだと思っています。