行雲流水

仏教をテーマとした記事を掲載しています。

禅語(3)両忘

2015年03月31日 | 禅の心
両忘・・・生と死という対立概念を忘れるということです。

禅では、何か特定のものを崇拝する「一元論」も、生死、苦楽のように対立して考える「二元論」もなじみません。

何かにとらわれてしまうと、物事の本質がわからなくなるからです。

生きていることの中に死はあるのです。苦の中に楽があり、楽の中に苦があるのです。

高い山に登るのは苦しいですが、頂上にはとてもすてきな世界が広がっています。

マラソンは苦しいですが、走り終えたあとでしか味わえない爽快感があります。

だから苦しくても山に登ったり、走ったりするのです。

私が残念に思うことに、お坊さんの中には、「自分は保守主義者だ」という人がいます。

仏の教えに右も左もありません。自分や他人にレッテルを貼らないことが大事です。何かにとらわれることが本質を見ることを妨げるからです。



禅語(2)一期一会

2015年03月27日 | 禅の心
「一期一会」は幕末の大老、井伊直弼の言葉です。

今日会う客は二度と会うことがないかもしれないので、何事も丁寧に接しようという心ですが、二度とない人生だから、悔いの残らないように生きていこうともとらえることができます。
このことをうたっているのが、坂村真民さんの『二度とない人生だから』です。


二度とない人生だから
一輪の花にも
無限の愛をそそいでゆこう
一羽の鳥の声にも
無心の耳をかたむけてゆこう

二度とない人生だから
一匹のこおろぎでも
ふみころさないようこ
こころしてゆこう
どんなにかよろこぶことだろう

二度とない人生だから
一ぺんでも多く便りをしよう
返事は必ず書くことにしよう

二度とない人生だから
まず一番身近な者たちに
できるだけのことをしよう
貧しいけれど
こころ豊かに接してゆこう

二度とない人生だから
つゆくさのつゆにも
めぐりあいのふしぎを思い
足をとどめてみつめてゆこう

二度とない人生だから
のぼる日 しずむ日
まるい月 かけてゆく月
四季それぞれの星星の光にふれて
わがこころをあらいきよめてゆこう

二度とない人生だから
戦争のない世の実現に努力し
そういう詩を一篇でも多く作ってゆこう
わたしが死んだら
あとをついでくれる若い人たちのために
この大願を書きつづけてゆこう



また、山本有三の『路傍の石』で次野先生が語った言葉もそうです。

たったひとりしかない自分を、
たった一度しかない人生を、
本当に生かさなかったら、
人間、生まれてきたかいがないじゃないか



人生「一期一会」一度限りの人生をどう生きていくかが、大問題なのです。

禅語(1)日日是好日

2015年03月24日 | 禅の心
日日是好日(碧巌録)

碧巌録の第六則の言葉です。

現代的には、「毎日を良い日にしよう」と解釈する人がいますが、
私は「晴れの日には晴れの日の生き方、雨の日には雨に日の生き方をしよう」と解しています。
人生、良いときも悪いときもあるけど、今日という日を精一杯生きていこうということです。

堀口大学の次の詩が日日是好日をよくあらわしていると思います。

雨の日は 雨を愛さう。
風の日は 風を好まう。
晴れた日は 散歩をしよう。
貧しくば 心に富まう。



自分なりにがんばる

2015年03月20日 | 法句経
放逸おこたりの人の中に

ひとりいそしみ

うち眠る人の中に

ひとりよくさめたる

かくの如き智者は

かの足駿はやき馬の

おそき馬を駆けぬくごとく

彼は足早く走りゆくなり (法句経第29番)




なまけている人々のなかで、

努めはげみ

眠っている人々のなかで、

目醒めている思慮ある人は、

疾はやくはしる馬が、

足のろの馬を抜いてかけるようなものである。



私は、がんばれる人はしっかりがんばればいいと思うし、がんばれない人は、自分なりにやればいいと思っています。ウサギとカメのウサギの生き方でもカメの生き方でもいいと思っています。自分らしく生きることが大切です。というわけで、29番の聖句を批判的に考えて
みました。

憂いなき人生

2015年03月17日 | 法句経
放逸(おこたり)を脚(しりぞ)けし賢き人(ひと)は

智慧の高閣(たかや)にのぼり

こころにうれいなくして

憂(うれい)ある愚衆(ひと)をみおろすなり

山頂に立つひとの

地に在(あ)るものをみるごとく(法句経第28番)




怠け心を退けることのできる賢者は

智慧の高閣(たかどの)に登り、

自らは心に憂い無くして

憂いある人々を見下(みおろ)す。

山の頂に立っている人が

地上の人々を見下(みおろ)すように。



私は、この一節には違和感をおぼえます。「他人を見下ろす」ということについてです。禅では自分が悟りを開いて、他人を見下すことを魔禅といって戒めています。私は、この一節を、心に憂いがなくなって高慢になるのではなく、憂いをもった人々を自分と同じように憂いのないように救ってあげたいと受け取っています。