行雲流水

仏教をテーマとした記事を掲載しています。

人間に光あれ②

2020年08月28日 | 親鸞・歎異抄・浄土真宗
カンボジアのポル・ポトにしても、ナチスのヒトラーにしても富裕層への憎しみが悲劇を起こしています。(ヒトラーはユダヤ人へと的が絞られていきましたが・・・)
金持ち憎し、権力者憎しも度が過ぎれば悲劇をもたらすのです。
学校でのいじめは、強者が弱者をいじめる場合もあれば、裕福な家庭に育っているとか、勉強ができる、異性にもてるなどの羨望によって標的になる場合もあります。こちらの方がなかなかわかりにくいのではないでしょうか。
1963年に義務教育の教科書が無償化になる法律ができました。この家庭では裕福な家庭の子どもは有償でもいいのではないかという議論もあったようですが家庭の経済状況に関係なくすべての子どもの教科書が無償となりました。
憲法26条の精神と「人の世に熱あれ」という宣言の文言がそのようにさせたのではないでしょうか。



http://www.bll.gr.jp/archive/s-gyo-kyokasyo.html

人間(じんかん)に光あれ①

2020年08月25日 | 親鸞・歎異抄・浄土真宗
宣言の最後の「人間に光りあれ」はすてきな一文だと思います。
人間を「じんかん」と読む場合は、世間という意味合いが多いですが、人間の複数形の人々と考えてもいいと思っています。
周防の遠崎の僧 月性には「人間(じんかん)いたるところに青山(せいざん)あり」という詩がありますが、「世の中にはどこにでも死に場所があるものだよ」という意味になると思います。
本当は「人の世に光りあれ」でもよかったのでしょうが、「人の世」が二度出てくることになるので「人間に光りあれ」にしたのかもしれません。
いずれにしても、「光」とは何でしょうか。栄光とかという意味ではなく、私は「光明」だと思っています。つまり人々の心の中の差別をおこす闇を照らす光明でなければならないと思うのです。ある意味すごく宗教的な一文だと思っています。光明が人々の心の闇を照らし続け、差別がなくなっていくことを願うばかりです・


全國に散在する吾が特殊民よ團結せよ。
 長い間虐(いじ)められて來た兄弟よ、過去半世紀間に種々なる方法と、多くの人々によつてなされた吾らの爲めの運動が、何等(なんら)の有難い効果を齎(もた)らさなかつた事實は、夫等(それら)のすべてが吾々によって、又他の人々によつて毎(つね)に人間を冒涜されてゐた罰であつたのだ。そしてこれ等の人間を勦(いたわ)るかの如き運動は、かへつて多くの兄弟を堕落させた事を想へば、此際(このさい)吾等(われら)の中より人間を尊敬する事によつて自ら解放せんとする者の集團運動を起せるは、寧ろ必然である。
 兄弟よ、吾々の祖先は自由、平等の渇仰者(かっこうしゃ)であり、實行者であつた。陋劣(ろうれつ)なる階級政策の犠牲者であり、男らしき産業的殉教者であつたのだ。ケモノの皮剝はぐ報酬として、生々しき人間の皮を剝取られ、ケモノの心臓を裂く代價(だいか)として、暖(あたたか)い人間の心臟を引裂かれ、そこへ下らない嘲笑の唾まで吐きかけられた呪はれの夜の惡夢のうちにも、なほ誇り得る人間の血は、涸(か)れずにあつた。そうだ、そして吾々は、この血を享(う)けて人間が神にかわらうとする時代にあうたのだ。犠牲者がその烙印(らくいん)を投げ返す時が來たのだ。殉教者が、その荊冠(けいかん)を祝福される時が來たのだ。
 吾々がエタである事を誇り得る時が來たのだ。
 吾々は、かならず卑屈なる言葉と怯懦(きょうだ)なる行爲によつて、祖先を辱しめ、人間を冒瀆してはならぬ。そうして人の世の冷たさが、何(ど)んなに冷たいか、人間を勦いたはる事が何なんであるかをよく知つてゐる吾々は、心から人生の熱と光を願求禮讃(がんぐらいさん)するものである。
 は、かくして生れた。
 人の世に熱あれ、人間(じんかん)に光あれ。
大正十一年三月

真剣に考えている人には申し訳ないのですが

2020年08月21日 | 仏の心
「自分は何のために生きているのだろう」「人生の意味は」という疑問に対して、死に直面してみて、
そんなことはどうでもいい
と気がつきました。
もちろん、人生に意味がないのではなく、その問い自体が意味がないと思ったのです。
そんなことはどうでもよく
人生楽しく陽気に生きましょう。

自分の中の宇宙

2020年08月18日 | 禅の心
 柴山全慶老師の『越後獅子禅話』(のちに『人生禅話』と改題)の一節です。

 さて、もしこのデデン!の一声をわれわれ人間の一生に比べたならば、どのようなことに当たるでしょう。「オギャー!」とあげた産声と見るべきではないでしょうか。
 この「オギャー!」の一声こそは、全く文字通りに無念無心、無垢清浄であります。○この一声には、大臣になりたい野心もなければ、お金持ちになりたい欲望もなければ、学者になりたい希望もないと思います。また、ホームレスに(※きたろう言い換え)なったら恥ずかしいという思いもなければ、汚い着物を着ては他人に笑われるとも考えていないでしょう。
「澄み渡り」と原文にありますが、実は澄むの澄まないのという、分別心の汚れさえないほど澄み切っているのが「オギャー!」の一声なのであります。
 これこそ神の一声、天真仏の一声ではないでしょうか。
 天あることを知らず、地あることを知らず、美醜あることを知らず、自他あることを知らざるのこの一声こそ、天地一杯、宇宙一杯に鳴り響いた一声でなければなりません。


私は「天地いっぱい」という言葉にひかかってきましたが、同じことを内山興正老師もおっしゃっています。

眼耳鼻舌身意の六識の下には深層心理の末那識と阿頼耶識がありますが、真っ暗な阿頼耶識の奥に光の世界があるのではないでしょうか。
これを朝比奈宗源老師は「仏心」といい、臨済禅師は「一無位の真人」といい、親鸞聖人は「光明」と言ったのではないでしょうか。
また、内山興正老師や道元禅師は「自己」という言葉を使われますが、自分自身という意味ではなく、これら「仏心」などと同じような意味だと私は思っています。
阿頼耶識の奥に広がっているのは「天地」あるいは「宇宙」なのではないでしょうか。


虚無に陥らないために

2020年08月14日 | 仏の心
仏教は現実主義だから「夢や希望を持たず、今をしっかり生きよう」というような考え方に陥り易いと思うのです。しかし、これでは単なる虚無(ただし、積極的な虚無で私は否定しません。)です。
般若心経は「色即是空 空即是色」と否定したものを更に否定するという二重否定になっています。 
「夢や希望を持つ」ということと、「夢や希望を持たないことはしない」という二つのことは後者により強い肯定感を感じます。般若心経には虚無に陥らないための仕掛けがあるようです。
スマナサーラ長老の考え方が間違っているとは思いませんが、般若心経ではこのように考えているのだということです。