行雲流水

仏教をテーマとした記事を掲載しています。

この世は偽善者ばかり

2013年11月29日 | 親鸞・歎異抄・浄土真宗
たとえば、ひとを千人ころしてんや、しからば往生は一定すべしとおほせさふらひしとき、おほせにてはさふらへども、一人もこの身の器量にては、ころしつべしともおぼへずさふらふと、まうしてさふらひしかば、さてはいかに親鸞がいふことを、たがふまじきとはいふぞと。これにてしるべし、なにごとも、こころにまかせたることならば、往生のために千人殺せといはんに、すなわちころすべし。しかれども一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて害せざるなり。わがこころのよくてころさぬにはあらず。また害せじとおもふとも、百人千人をころすこともあるべしと、おほせのそふらひしは、われらがこころのよきをばよしとおもひ、あしきことをばあしとおもひて願の不思議にてたすけたまふといふことをしらざることをおほせのさふらひしなり。

親鸞聖人は、弟子の唯円に、「わしの言うことに何でも従うか」と言いました。
親鸞聖人「それなら人を千人殺してきんさい。そうすりゃあ往生できるけ」
唯円は「私の器量では千人どころか一人も殺すことができません」
親鸞聖人「そんなら、どうして、わしの言うことに何でも従うと言うたんじゃね」
「人間が思ったとおりに良いことも悪いこともできるのであれば、わしが千人殺せ言うたら殺せるはずじゃ。しかし、お前が一人も殺せないのは、お前に人を殺す縁が備わっていないからなんじゃよ」
われわれは、善悪の判断にとらわれて本願のありがたさがわかっていないのだと親鸞聖人はおっしゃったのでした。

私たちが、刑務所に入っていないのは、善人だからではなく、悪いことをする縁がなかったからです。これが親鸞聖人の言いたかったことなのです。親鸞聖人のいう悪人とは、自分の悪い点を自覚している人、善人とはそれを自覚していない偽善者なのです。人間は弱い存在なので、縁があれば、悪いことをしてしまうのです。悪人であるという自覚が大事なのです。

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無我の境地

2013年11月26日 | 禅の心
策扶老以流憩  策(つえ)つきて老を扶け以って流憩し

時矯首而游観  時に首を矯(あ)げて游観す

雲無心而出岫  雲無心にして岫を出ず

鳥倦飛而知還  鳥飛ぶに倦んで還るを知る



陶淵明の帰去来の一節です。 白隠禅師が著書の『槐安国語』に引用しています。雲が山の谷間からもくもくとわき上がる様子を表しています。雲は無心です。雲のように自我を忘れることを禅者は重んじます。西洋は自我を育てる文化ですが、東洋では自我を忘れた無我の境地を重く見るのです。

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塚原卜伝の「頑張りすぎるな」

2013年11月22日 | 禅の心
 剣術家の塚原卜伝(つかはらぼくでん)と彼に弟子入りを志願した男との会話です。
 男「剣術を習いたいので入門を許して下さいませんか。私は一所懸命に修行します。どれくらいで免許皆伝していただけますか」
卜伝「一所懸命にやれば、5年で免許皆伝になるじゃろうよ」
 男「では、寝食を忘れて修行に打ち込めば、何年で免許皆伝になりますか」
卜伝「寝食を忘れてやれば、10年で免許皆伝になるじゃろうよ」
 男「それじゃあ、死に物ぐるいで修行すれば、何年で免許皆伝になりますか」
卜伝「死に物ぐるいでやれば、一生、免許皆伝にならんじゃろうよ」


 普通に考えてみれば、何事も一生懸命やればやるほど、早く上達すると考えがちです。しかし、剣聖と呼ばれた卜伝は、そう考えなかったのです。
 「寝食を忘れてやれば、10年で免許皆伝になるじゃろうよ」というのは、資格をとるのに、ふつうにやれば1年かかるとします。
毎日徹夜したり、食事を抜いたりしているうちに、1ヶ月でダウンしてしまって、1ヶ月休んでしまった。また元気になって徹夜を始めたけれど、またダウンしてしまった。これを繰り返しているうちに、1年ですむものが2年かかってしまった。あるいは、大学に入学して張り切って勉強していたけど、がんばりすぎて、体調を崩して休学して、卒業がのびてしまったというところでしょうか。
 「死に物ぐるいでやれば、一生、免許皆伝にならんじゃろうよ」というのは、死にものぐるいで体にむち打ってやっているうちに、心臓発作で死んでしまったというようなところでしょうか。大学に入学して死にものぐるいでやったのに、成果が出ずに自殺してしまう学生もいます。
塚原卜伝は、何事も自分の実力を知って、自分のペースでやることが大事だと言っているのです。がむしゃらにがんばることが良いことではないのです。禅は、あまり頑張りすぎないことを勧めています。

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寒山の禅心

2013年11月19日 | 禅の心
欲得安身處  安身の処を得んと欲せば

寒山可長保  寒山長(とこしなえ)に保つべし

微風吹幽松  微風幽松を吹く

近聴声愈好  近く聴けば声愈好し

下有班白人  下に班白の人有り

喃喃読黄老  喃喃(なんなん)として黄老を読む

十年帰不得  十年帰る事を得れば

忘却来時道  来時の道を忘却す




心身の安らぎを得たいのなら、
この寒山こそ、永久に良き場所じゃろう。
ここは山深く、幽松に微風が吹いて、美しい音色を奏でている。
近づいて聴けば聴くほどその声はいよいよ美しく心を洗うようじゃ
松の木陰には半分白髪の老人がいて
喃喃(なんなん)と声を出しながら宗教書を読んでいる。
もう十年も家に帰らないから、
来たときの道も忘れてしまっている。


これは寒山詩の中でも傑作と言われている詩です。
良い山、悪い山という相対的な思考を超えるために、「山」に「寒」をつけているのです。どこかに良い場所があるのではなく、自分のいるこの場所が良い場所なのです。
幽松の「幽」は、感覚でも理屈でもとらえることのできない存在をいいます。
幽松と微風と自分が一つにとけあう。異なるものが、対立するのではないというのが、禅の心なのです。
最後の一節は、悟りを開いてもその悟ったことすら忘れているのが本物の悟りだということです。「自分は、偉いんだ」という天狗の鼻をへし折って、謙虚に生きる生き方を寒山は勧めているのです。自分のことを偉いと思う心をとるのが、悟りなのです。

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宗教家として道徳教育を批判する

2013年11月15日 | 禅の心
○全部がそうじゃとは言わんが、道徳教育は権力者の人民に対する統制手段なんじゃ。
○まず、権力者が道徳的でないといかんわな。
○「道徳的」なことは、権力者や国家が決めることではない。
○「道徳的」なことを、権力者や国家が決めることは危険なのじゃ。
○戦前は「お国のために死ぬこと」が道徳的に良いこととされてきた。
○「お上に逆らうこと、強い者に逆らうことは悪いこと」とされてきた。
○道徳とは、権力者にとって都合のよいことを押しつけることなんじゃ。
○道徳には、自分の頭で考えるという過程が欠けておるのじゃ。
○それに対して、宗教は自分が大いなる者を信じることなんじゃ。
○特に、仏の道は、自分で考えて行動することを大切にしておる。
○善悪の押しつけではなく、自分で判断することが大事なんじゃ。

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