行雲流水

仏教をテーマとした記事を掲載しています。

正義も過ぎれば悪となる

2010年02月09日 | 禅の心
インドの神様である阿修羅には、舎脂という愛娘がいました。

はじめ阿修羅と仲のよかった帝釈天は、舎脂を腕づくで奪ってしまいました。

阿修羅は烈火の如く怒り狂い、帝釈天を攻撃しました。

愛娘の舎脂は、帝釈天を気に入り好きになってしまいました。

それでも阿修羅は帝釈天を許せなかったのです。

阿修羅は何度も何度も帝釈天に戦いを挑み続けましたが、帝釈天は強かったのです。



確かに娘を腕づくで奪った帝釈天は悪いです。しかし娘は帝釈天と幸せに暮らしているのです。

阿修羅には許す心がなかったのです。


世の中には、許せる悪と許せない悪があると思います。

大事な家族の命を奪われれば、許せない悪と言っていいでしょう。

あるいは、自分の恋人や結婚相手を奪われれば許せないでしょう。

しかし、舎脂は、阿修羅の娘であり、いずれは嫁にやらねばならないものでした。

帝釈天のとった手段は悪かったによ、結果的には娘は幸せに暮らしているのですから、

それを喜んでやらなければならなかったと思います。


現代社会もたくさんの正義であふれています。

正義はいいことです。

しかし、正義にこだわり続ければ、逆に多くの人から非難されることもあります。

また、阿修羅のように、正義を戦争という暴力で貫くのもいいことではありません。

多くの人間は、自分の行いが正義であると信じているところがあります。

その自分の正義感に酔いしれていきます。(自分のことは棚に上げておいて)

そして激しく攻撃します。

新聞やワイドショーを見ていてもそう思います。

あるいは行きすぎたクレーマーもそうなのかもしれません。

正義を、攻撃することでもって貫こうとするのはよくありません。

やはり人間、理性でもって穏やかに物事を解決していこうとする姿勢が大切だと思います。

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煩悩はなぜ108個か

2010年02月05日 | 禅の心
広島市西区

除夜の鐘は108回撞きますが、これは人間の煩悩が108個あることに基づくと言われています。

しかし、なぜ108なのでしょうか。

いろいろ調べてみても根拠がありません。

奈良の薬師寺などに伝わる倶舎論(くしゃろん)には煩悩に関して98という数字が出てきますが、108ではありません。

よく、四苦八苦と言います。

私は、せいぜい、四苦八苦で108なのではないかと思うのです。

つまり、

四苦と八苦=108

しく さんじゅうろく と はっく しちじゅうに で 108

4×9+8×9=108

ということではないでしょうか。

ちなみに四苦とは、

生病老死の四つの苦しみで、

八苦は、四苦に

愛別離苦(あいべつりく:愛する者と別れなければならない苦しみ)
怨憎会苦(おんぞうえく:嫌いな人に会わなければならない苦しみ)
求不得苦(ぐふとくく:欲しいものが得られない苦しみ)
五蘊盛苦(ごうんじょうく:元気すぎる苦しみ)

を加えたものです。

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福は内 鬼も内

2010年02月02日 | 禅の心
広島県廿日市市・宮島弥山・三鬼堂

明日は、節分です。

豆まきと言えば、「鬼は外、福は内。」です。

しかし、生きている人の心には、福の神だけしかいないということはありません。

人間の心には福の神もいれば、鬼もいるのです。

心の中の鬼は、生きている限り追い出すことはできないものだと思います。

どんなに善人ぶっていても、私たちは他の動植物の命を奪って、生きていかなければなりません。

生きている限り、怒り、憎しみ、貪り、愚痴、嫉妬などのマイナスの感情を多かれ少なかれ持っているの

が、私たち人間です。

足ることを知り、命を奪われた動植物に感謝して、できるだけその犠牲を少なくする。

マイナスの感情ができるだけ少なくなるように努力する。

生きている自分の心の中には鬼がいることを自覚していないと、それはできません。

他を批判することは簡単ですが、その前に己の中の鬼と向き合うことが大切だと思うのです。

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