行雲流水

仏教をテーマとした記事を掲載しています。

日本人の死生観

2009年12月11日 | 禅の心
広島市西区(三滝寺)

まず、梶井基次郎の『桜の木の下には』を読んでみてください。

超短編なので、すぐに読むことができます。

http://www.aozora.gr.jp/cards/000074/files/427_19793.html

ここ、三滝寺は、被爆された方々の療養の場所になりました。

三滝寺は、爆心地から直線距離にして4キロほどのところにありますが、

谷筋にあったため、被害は少なかったそうです。

命からがら、ここに逃げ延びてきても、力尽きて亡くなった方も少なくなかったようです。

今はこのように美しい場所も、当時はたくさんのご遺体が散乱していたそうです。

この美しい風景は、無念に命を落とされた方々の叫びなのかもしれないなあと、想像できるのです。

生と死、生の中に死があり、死の中に生がある。

美と醜、美しさの中に醜さがあり、醜さの中に美しさがある。

三滝寺を歩いてみるとそのことが実感できるのです。

日本人の死生観についてもう一つ。

梶井基次郎の「桜の樹の下に」は、決していいとは思いませんが、

生と死は一つのものだという、日本人独特の死生観を見て取ることはできました。

上島鬼貫(うえしまおにつら)という俳諧師に

骸骨の 上を粧ひて 花見かな

という、句があります。

一般には、

花見だと言って、馬鹿騒ぎしているが、所詮、骸骨が着物を着て騒いでいるだけのことだ

と解されていますが、

これでは一種のニヒリズム(虚無主義)です。

しかし、この句には、もっと陽気で洒脱なものがあるような気がします。

所詮は骸骨なんだけど、それが馬鹿騒ぎできるなんて素晴らしいじゃないか。

日本文化は無常観が背景にあります。

次々に移り変わっていって、一定のものはないというわけです。

鴨長明の方丈記の冒頭の部分、

ゆく川の 流れは たへずして 

しかも もとの 水にあらず

淀みに うかぶ うたかたも  

かつ消へ かつ結びて  

久しくとどまりたる ためしなし

人の世も すみかも またかくの 如し


はそれをよく表しています。

けれども、無常観は、ニヒリズムではありません。

人間は、死んでいく存在だ・・・・これはニヒリズムです。

人間は 死んでいく存在だからこそ 生きていることが素晴らしい・・・・これが日本人の無常観です。

子供は無邪気に遊んでいます。「人生って楽しいな。」

これは子供の明るさです。

しかし、思春期になると、「人生なんて意味がないや。」「何のために生きているのだろう。」という壁にぶつかります。これはニヒリズムに近いものになります。

そして、成熟していくと、「人生は短いから、今を大切に、最善を尽くそう。」と思います。これが日本人の無常観です。

つまり、英文法でいうところの二重否定なのです。

「人生には意味がないことはない。」と言えば、「人生には意味がある。」というよりも強く肯定することになります。

日本人の無常観は、もっともっと積極的なものなのです。

私たちは死ぬ存在だからこそ、よりよく生きなければならないのです。

自分自身が 恥ずかしい

2009年12月08日 | 禅の心
広島市安芸区

人と比べれば 争いが 生まれる

仏と 比べれば 慚愧が 生まれる


「あなたは、右翼ですか?それとも左翼ですか?」

と聞く人がいます。

「どちらでもない。」が答えです。

「あなたは自民党支持ですか?民主党支持ですか?」

と、聞く人がいます・

「支持政党はない。」

と言うのが答えなのですが、その人は、人の思想的なものを分類したがっているようです。

特に、現代人には、勝手に敵を作ってエキサイトしている人が多いです。

そして、自分と考え方の異なる人に対しては、話を聞かず激しく攻撃していく傾向にもあります。

私は、自分自身の思想、信条を持つことは悪いことだとは思いませんが、

それが、全てではないし、異なる考え方にも耳を傾けなければならないと思います。

不幸は、他と比較することから始まります。

みんな自分が正しいと思っていることを主張しあっているわけですから、

争いの元になります。

しかし、自分自身と対話して、反省していくことは、

自分自身が成長していくためには大切なことなのです。

仏と比べるとは、自分自身と対話していくことなのです。

仏と比べてみれば、自分自身の稚拙さがわかる。

自分自身を恥ずかしいと思う。

その思いを繰り返しながら人間は成長していくのです。

お金は あの世に 持って行けぬ

2009年12月04日 | 禅の心
わが子よ わが財よと

愚者は 思い悩む

わが身さえ わが自由にならぬを

何のわが子ぞ 何のわが財ぞ


子供でさえ、「お金があれば何でもできる。」「お金が幸せの物差しだ。」

と、言うようになってしまいました。

お金持ちが尊敬されているのではなく、人はお金に頭を下げているのです。

仏の教えとは、ある意味、社会主義、共産主義に似たところがあります。(あくまでも似たところがあるというのであって、そのものではありません。)

財産や自分の体でさえ、仏さまからの預かりもので、自分が所有しているわけではないという考え方です。

だから、最後には自分の体や財産をあの世に持って行くことはできません。

「お金を積むより徳を積め」と言います。

お金を持っていることで尊敬されるよりも、徳を持っていることで尊敬される方が良いと思います。

大圓鏡智

2009年12月01日 | 禅の心
神社のご神体として、円い鏡が置いてあることが多いです。

鏡は、子供が来れば子供を写し、

お年寄りが来ればお年寄りを写し、

女性が来れば女性を写す。

男が来れば男の姿を写す。

また、大きな山や川、星空までも写します。

そして、前に立っていた人が、立ち去れば、跡形もなく姿がなくなってしまいます。

全く清浄無垢なものなのです。

これはまさに、三十三の姿になって人々を救う観音様の心なのです。

そして、これは私たちの姿なのです。

そして、ご神体の鏡は、円いです。

神の心は、清浄無垢で円いものなのです。

過ぎ去ったことにこだわるな。

お金や名誉など一時的なものだ。

あまり怒らず、丸い心で生きましょうよ。

そのように神さまは教えてくださっているのです。

鏡(かがみ)は神(かみ)なのです。