花札の11月、雨です。
小野道風が柳に飛びついたカエルを見て、自分も書道を頑張らなければと思ったというのが、一般的な解釈です。
しかし、私には、カエルが柳に飛びつくのは、単なる遊びにしか見えません。
食糧の虫でもいれば別ですが、ただ面白くてやっているのかなと思います。
学校の先生や、勝ち負けの好きな人には、お叱りを受けるかも知れませんが、180度見方を変えてみるとこうなります。
現代社会では、「頑張る」ことは善であり、最高の価値です。
しかし、宗教はそうではありません。
頑張って、過労死で命を落としては何にもなりません。
お国のために頑張って、鉄砲の弾にあたって、幸せな人もあるかもしれませんが、死んでは何もなりません。
小野道風の逸話も江戸時代くらいに造られ、明治以降は、国民をお国のために頑張らせるための話に仕立てました。
私は、人に「登山頑張っていますね」と言われると、
「いえ、楽しんでいますよ」と応えます。
また、健康のために歩いたり山に登っているのではありません。
私は歩くのが速いのですが、ムキになって追い越そうとしたり、追い越されて悔しがる人もいます。
「私はあなたと競争するつもりはない」と思うのですね。
「頑張れ」「頑張ろう」と言うのは、社会的価値観です。
「楽しんでいこう」というのは彼岸の世界の価値観、つまり宗教的価値観です。
19世紀に哲学者のニーチェは、キリスト教によって、この世は無意味なもだという考え方(ニヒリズム=虚無主義と言います)がはびこっていると考えました。ニーチェは社会的価値観の支持者なのです。つまり、立場の弱い人が、キリスト教の考え方に甘やかされて、また強いものに対してねたむことによって、虚無主義がおこると考えたのでした。
宗教というものは弱い人の味方であるとニーチェは考えているわけです。
私はもちろん、ニーチェの考え方には賛成できません。
私たちは、好むと好まざるにかかわらず、社会の中で生きていかなければなりません。ただ、資本主義社会だろうが、社会主義、共産主義社会だろうが、弱い者にとっては生きにくいものです。
社会の価値観から離れ、あの世(彼岸)の価値観で生きていこうというのが宗教だと思うのです。
少し難しい話になりましたが、「頑張れ、頑張れ」という社会の価値観を離れて、「頑張らなくても、今のあなたでいいよ」というのが宗教でなければならないと思うのです。
救われてこそ宗教なのだと思います。
小野道風が柳に飛びついたカエルを見て、自分も書道を頑張らなければと思ったというのが、一般的な解釈です。
しかし、私には、カエルが柳に飛びつくのは、単なる遊びにしか見えません。
食糧の虫でもいれば別ですが、ただ面白くてやっているのかなと思います。
学校の先生や、勝ち負けの好きな人には、お叱りを受けるかも知れませんが、180度見方を変えてみるとこうなります。
現代社会では、「頑張る」ことは善であり、最高の価値です。
しかし、宗教はそうではありません。
頑張って、過労死で命を落としては何にもなりません。
お国のために頑張って、鉄砲の弾にあたって、幸せな人もあるかもしれませんが、死んでは何もなりません。
小野道風の逸話も江戸時代くらいに造られ、明治以降は、国民をお国のために頑張らせるための話に仕立てました。
私は、人に「登山頑張っていますね」と言われると、
「いえ、楽しんでいますよ」と応えます。
また、健康のために歩いたり山に登っているのではありません。
私は歩くのが速いのですが、ムキになって追い越そうとしたり、追い越されて悔しがる人もいます。
「私はあなたと競争するつもりはない」と思うのですね。
「頑張れ」「頑張ろう」と言うのは、社会的価値観です。
「楽しんでいこう」というのは彼岸の世界の価値観、つまり宗教的価値観です。
19世紀に哲学者のニーチェは、キリスト教によって、この世は無意味なもだという考え方(ニヒリズム=虚無主義と言います)がはびこっていると考えました。ニーチェは社会的価値観の支持者なのです。つまり、立場の弱い人が、キリスト教の考え方に甘やかされて、また強いものに対してねたむことによって、虚無主義がおこると考えたのでした。
宗教というものは弱い人の味方であるとニーチェは考えているわけです。
私はもちろん、ニーチェの考え方には賛成できません。
私たちは、好むと好まざるにかかわらず、社会の中で生きていかなければなりません。ただ、資本主義社会だろうが、社会主義、共産主義社会だろうが、弱い者にとっては生きにくいものです。
社会の価値観から離れ、あの世(彼岸)の価値観で生きていこうというのが宗教だと思うのです。
少し難しい話になりましたが、「頑張れ、頑張れ」という社会の価値観を離れて、「頑張らなくても、今のあなたでいいよ」というのが宗教でなければならないと思うのです。
救われてこそ宗教なのだと思います。