奈良北部の古寺めぐり(2)
2012.06.22(金)、梅雨の間の貴重な晴れ間を大阪との県境に近い、奈良の西部「平群(へぐり)町」あたりに来て、「達磨寺」を見た後は、霊験あらたかな山「信貴山」の中腹にある寺に向った。「生駒山」とも近く一度は訪れたいと思っていた所である。
「朝護孫子寺」 (ちょうごそんしじ) 別名:「信貴山寺」「信貴山の毘沙門さん」
信貴山真言宗総本山 信貴山
奈良県生駒郡平群町
拝観無料 駐車料¥500(終日)
お寺ながら、駐車場前の入口は「鳥居」が立つ。
「朝護孫子寺」について
醍醐天皇の御病気のため、勅命により命蓮上人が毘沙門天王に病気平癒の祈願をいたしました。加持感応空なしからず天皇の御病気は、たちまちにして癒えました。よって天皇、朝廟安穏・守護国土・子孫長久の祈願所として「朝護孫子寺」の勅号を賜ることとなりました。また、朝護孫子寺は、「信貴山寺」とも呼ばれ、多くの方に親しまれています。 (寺のホームページ(http://www.sigisan.or.jp/)より原文のまま、以下同文)
この山が「貴信山」標高437m、この西(左)を超えて「信貴生駒スカイライン」をまたげばそこは大阪府八尾市だ。山の中腹にあるのが「本堂」だ。
信貴山
今から1400余年前、聖徳太子は、物部守屋を討伐せんと河内稲村城へ向かう途中、この山に至りました。太子が戦勝の祈願をするや、天空遥かに毘沙門天王が出現され、必勝の秘法を授かりました。その日は奇しくも寅年、寅日、寅の刻でありました。太子はその御加護で勝利し、自ら天王の御尊像を刻み伽藍を創建、信ずべし貴ぶべき山『信貴山』と名付けました。以来、信貴山の毘沙門天王は寅に縁のある神として信仰されています。
「本堂」の入口
本堂は文禄年中(1592)豊臣秀吉の再建、または慶長7年(1602)秀頼の再建とする説があり、定かではありません。後に修復を加え、延享3年(1746)に完成しました。然るに、昭和26年(1951)不慮の火災で焼失し、同33年(1958)に再建、現在に至っております。
「本堂」南側の舞台。ここも本堂内は撮影禁止であった。
「成福院」
成福院は信貴山真言宗の大本山であり、信貴山内の中心に位置し、歴史伝統ある信貴山において近代的センスを兼ね備えた宿坊寺院です。成福院融通殿には、後嵯峨天皇が御念持佛とされていました、諸々の願いを意のままに叶えて頂ける「如意宝珠(如意融通宝生尊)」をお祀りしており、また左脇侍に厄難消除の不動明王、右脇侍には立身出世の弘法大師をお祀りしております。
「玉蔵院」
信貴山の宿坊として親しまれている塔頭「玉蔵院」。浴油堂、玉蔵院融通堂、三重塔阿閦如来、日本一大地蔵等が祀られています。その他、約250人までの宿泊ができる玉蔵院富貴閣や、茶室古厘庵があります。
「多宝塔」
祭壇に大日如来を安置されています。坐像丈三尺、説に恵心僧都作とすることから、古くは天台宗との関わりがうかがえます。元禄2年(1689)に建立、明治15年(1882)に修復しました。
ここは「信貴山」の南側急斜面に造られた寺であり、平らな所は少ないようであるが、そこを殆ど隙間無く多数のお堂や塔頭、仏像や各種お祈りの場、記念碑などなどびっしりと隙間無く配置されている。また色々な角度からの嗜好(?)に満ちた商品(?)をあちこちで販売する場所があり、かなり商売熱心なお寺と感じた。
そのためにか、写真はこれでもかなり厳選した積りではあるが、とても一度では紹介しきれないので、今日の所は「寺」そのものをお見せし、次回にはちょっと面白い”アイデア商品(?)”などを紹介したいと思っている。
<< 続く >>