木燃人の波止場

花やお寺や観光地の写真を紹介しつつ、皆さんとの交流を計りたく思ってます、気軽に見て戴き、コメントを戴ければ嬉しいです。

790 達磨寺(奈良)

2012-06-24 08:00:00 | 奈良の寺社

奈良西部の古寺めぐり(1)


奈良には一体幾つの寺があるのかは全く解らないが、いつもの私の独断と偏見で選んだ80余りの寺を、生きてる間に全部を廻ろうと以前から考えていて、効率的に見て回る計画表だけは予てからきっちり出来ている。

最近ブログの最大のネタとしている「花」が少ない時期になって来たので、どうするかを思案していた所、梅雨の晴れ間を見て、撮影助手が急に何処かに行こうと言い出したのでこれ幸と乗ったのだった。(2012.06.22 金)

それも朝食を終わってからであるから時間が無いから、行動計画が出来上がっている所に限定される。前回は京都、ならば今回は奈良、奈良なら西部(平群町)と瞬時に決まった、言い出したのが8時からの”朝ドラ”が終わった後だから、急いで水筒にお茶だけ詰めて出掛けたのは8時40分を過ぎていた。

東、西名阪を走るのだが、カーナビは盛んに"道路工事で交通規制中”とか"〇Km先渋滞あり"とか言うが何もなく、通行無料の名阪も100Km/hを超えて走る事が出来る。"速度違反取り締まり中"の表示があるがお構いなし、覆面パトを2台見たが全て反対車線で10時には、「香芝IC」を降りる事が出来た。



「達磨寺」  (だるまじ)
       臨済宗南禅寺派  片岡山
       奈良県来た葛城群王寺町
       境内拝観無料  駐車無料(数台)

D87029t.jpg

この寺の創建については、推古天皇21年(613年)の冬、聖徳太子が片岡山で飢えていた異人に衣食を施したという片岡山飢人伝説にからめて語られる。その後は、衰退と中興が繰り返され、江戸時代には幕府から30石が与えられた。
片岡山飢人伝説とは、『日本書紀』の推古天皇21年(613年)12月条[1]や『元亨釈書』に見える次のような話である。聖徳太子こと厩戸皇子が片岡山を通りかかったところ、飢えて瀕死の異人に出会った。太子はその異人に当座の寒さと飢えをしのぐため、食物と自分の衣服とを与えた。翌日、使いをやって異人の様子を見に行かせたところ、すでに息絶えていたので、丁重に葬った。それからしばらくして墓の様子を見に行かせると、死体は消えており、衣服だけがきちんとたたまれて、棺の上に置かれていた。これを知った里人は、あの異人は達磨禅師の生まれ変わりに相違ないと言い、聖徳太子が自ら刻んだ達磨像を祀ったのが達磨寺の始まりであるという。
達磨寺の境内には達磨寺1号墳・2号墳・3号墳と称される3基の古墳(6世紀頃の築造)が存在し、このうちの3号墳の上に本堂が建てられている。この古墳は平安時代には聖徳太子ゆかりの達磨禅師の塚であると信じられていたようである。寺院としての形態が整うのは鎌倉時代以後と思われる。

D87044ta.jpg

堂内には国の重要文化財があるようだが、無断では入る事は出来なかった。

D87052t.jpg
D87085t.jpg

D87053t.jpg


名前が解らないが、美しい葉が目を引く。

D87050t.jpg

D87057t.jpg


「キョウチクトウ(夾竹桃)」 白い花は本ブログ初登場

D87072t.jpg


この辺りは法隆寺にも近く、聖徳太子にまつわる寺院は多いが、これより一度尋ねたいと予てから思っていた「信貴山(437m)」の山腹にある「朝護孫子寺」に向う。

                             << 続く >>

コメント